2011年12月12日月曜日

第二回奈良マラソン

3週間おきの関西レース3連戦もこの奈良で終了。数えてみたらこれが10度目のフルマラソン。
 大阪、神戸は自分の走力を過信して前半から突っ込んだ結果、後半潰れて悲惨な目にあったので、今回は謙虚に行くことにしていていた。大阪、神戸は3時間40分を目指してキロ5分 20秒より遅くならないように心掛けたら知らん間に5分切ったりしてて、30キロで潰れて歩く羽目になった。残念ながらそこまでの走力は私にはまだないのであった。そこで今回は逆にキロ5分30秒より速くならないように抑えていくことにする。何度も レースプランを練って、結局最初の4キロはキロ6分、そのあとは5分30のイーブンペースということにした。トータル3時間53分になる予定だが、プラン通りに運んで余力があれば30キロ以降にペースアップすることも考えていた。
 朝4時半起床。おにぎり2個、野菜ジュース、ヨーグルト、おはぎ2個。レース前は餅がいいと聞いたのでおはぎにしたが、米ばっかり、かつ甘いので2個はしんどかった。阪急、地下鉄、近鉄と乗り継いで近鉄奈良へ。パワーバー2個。
 奈良寒い。迷ったが長袖シャツの上にウィンドブレーカーを羽織る。そこにゼッケンつけたので最後まで脱げない。
 9時スタート。最初ペースを落とす計画なのでどんどん抜かれる。周りに合わせそうになるもガマンガマン。4キロすぎてから徐々にペースをあげるが、 ゆっくりいったおかげで楽チン。10キロはあっという間。天理大学構内に入った頃から下り坂が続く。ちょっと憂鬱になる。だってこんだけ下ったらそのぶん帰りは登りってことだよ。 山道をアップダウンしながら天理教の本山へ。まあでかいね。なんだありゃ。すごい迫力。折り返して今度は登りが増えるが、意外なことに思ったほどしんどくない。
 32キロ を越えたらあとは比較的なだらか。ここまでプラン通り。余力があるのでキロ5分まで上げてみる。でも先が怖いのですぐ自重。
 その先は潰れることもなくイーブンペースでいけた。最後1キロほどの坂はしんどかったが、結果3時間54分。自己ベストはならなかったけど、謙虚な走りで粘ってサブフォー。まあよかったかな。
 しかしマラソンは面白い。ただがむしゃらにがんばればいいってものじゃないところがいい。自分の走力の総体みたいなものがあって、それをいかに配分するか考えなくてはいけない。それを読み間違えて過信して突っ込むと潰れてしまい、ゆっくり行ったときよりもタイムは悪くなってしまう。逆にゆっくり行くとそこそこのタイムは出るけどやはり自己ベストを狙わないとつまらないので欲が出る。あとから、「もう少しペース上げられたかな?」なんて思う。で、結局自分はどれくらいの走力があって限界はどこなのか?答えは走って見ないとわからない。いや、うまくいったらいったで「もうちょいいけた」となるから、走ってもわからないともいえよう。
 次の目標はやはり3時間30を切ってみたい。まあそのまえに50分も40分も切らなきゃならんのだが。
3月の篠山までに体重5キロ落としたい。1キロ落とせばタイムが3分、4分縮まるというではないか。しかし去年も減量を決意したけどできんかったな〜。
 前回今回とレース1週間前から断酒した。体調は変わらないのだけれど、飲まない分レース後のビールが楽しみになって励みになる。そして、レースのあとの久々の1杯は、うまい!

2011年12月4日日曜日

41


なった。あまり実感がない。というか40過ぎたらもう50までは何歳でも一緒な気がする。この前まで今年で42になると勘違いしていたし。
ゼミで学生たちが祝ってくれた。いい子らだ。本当にありがたい。色紙とお酒をもらった。こういう色紙ってホントに嬉しいもんです。ありがとう。

2011年11月20日日曜日

第一回神戸マラソン


5:30起床。体重65.0キロ。おにぎり×2、野菜ジュース、カステラ2きれ、バナナ一本、ゼリー一個。晴れました。よかった。

今回は職場の人たちと一緒に出るので、いったん三宮で集合。記念写真を撮る。
しかし、今回はチームエントリーで、事前に頭をひねってチーム名を決めたのに、パンフレットにもどこにもチーム名が乗っていない。ほな、最初っからチーム名いらんやん。

快調な走り出し。3時間50分を切るべくキロ5分20を切らないよう走る。しかしBブロックでまわりが速いので、キロ5分でも速い気がしない。このペースに乗っちゃったのが失敗だったかも。
折り返しまでは順調。目標を上回るペース。折り返し後仲間を見つけては手を振る。余裕があった。
しかし21キロ過ぎから、うーん、しんどい。ペースが落ちて、また30キロで歩いてしまう。今回は太ももと腰が痛くなった。
結果、4時間29分。このまえの大阪よりさらに遅い。4時間も切れなかった。んあー。

体力が足りない。走り込みが足りない。のだと思うが、そんなに走る時間もとれないしなあ。

大学の同級生で、参加していたJ女史からメール。3時間37分だって。すげえ。おばけだ。

次はまた3週間後、奈良マラソン。もっとペースを落としてとりあえず4時間を切ろう。3月の篠山までには走り込みたいものだ。

しかし途中でしょっちゅう歩いたため、他のランナーから「甲南ガンバ!」と何度か檄をいただいた。OBさんとかかもしれん。Tシャツ効果実感である。

ゴール後神戸サウナに。サウナってはじめて行ったが、お風呂も休憩室もあってめっちゃ快適。オアシス。ランナーが続々来てた。打ち上げは鉄板焼 き。うまかった。メンバーが言うには、うしろの方では給水で水がなくなったり給食がなかったりサバイバルレースだったらしい。水がないと死ぬよ。これだけ は改善しないと。
コースは、鉄人が見れなかったり垂水のあたりが一車線でめちゃ混みやったり、あと須磨の水族園近くの坂がじんわりしんどかったり、と欠点もあったが、やはり綺麗な神戸の町を走れてよかった。もっと余裕があったら後半の景色も楽しめたのに。

ビール4杯でめちゃくちゃ酔った。タクシーで帰ってすぐ横になって寝た。

2011年11月3日木曜日

第一回 大阪マラソン

朝5時起床。体重66.5。ここ2,3日カーボローディングもどきでご飯もりもりおかわりしていたので重くなってる。おにぎり2個、野菜ジュース、水 500、カステラ2きれ、最後にザバスのゼリーを飲んで出発5:40。まだバスが走っていないので駅まで15分ほど歩く。阪急でもちらほらランナーを見か けるが、大阪で環状線乗ったらもうランナーだらけ。電車降りてもなかなかホームで人が動かない。
 家を出たときに降っていた小雨はやんでいる。よかった。着替え場所が大阪城公園の野球場なのだが、屋外である。雨だったらもう最悪であったろう。
 ここまででけっこう疲れていたのでブースでアミノバリューをもらって2杯飲む。これ失敗だった。そこから荷物を預けてスタート地点へ移動するの だが、これがまあ遠い。3キロくらい歩かされる。で、スタート地点まで行ったらトイレがない!今まで出た大きな大会はスタートブロック内にトイレがあった ものだが、それがない。聞くとだいぶ手前のトイレが最後だったそうで、歩いて戻る。もちろん長蛇の列。20分ほど待って用を足す。
 9時スタート。Cブロックだったのでけっこう前のほう。スタートまでも2分半くらいで、いいかんじ。
 しばらくはダンゴ状態でうまく走れない感じ。2キロくらいでまたトイレに行きたくなり、行く。

1.水分は起きてすぐだけにしておくがよろし。どうせ走り始めればすぐ給水がある。

 3キロで腕時計型GPSに異変。画面が消える。最近充電してるのに電池がなくなったりおかしな動きをしていたからな。もうスピードがわからないが、どうしようもないので自分のペース感覚を信じてみる。
 10キロくらいからすでに体が重い。「なんかしんどい」の状態。うーん。御堂筋は側道を走らされるのだけれど狭すぎ。いっぱいぶつかる。ぶつ かっても声をかけないランナーに腹を立てていたら、自分がぶつかってしまう。そしたらむこうが「すみません」。当然こちらも「いえいえいこちらこそすみま せん」。この人はかしこいランナーだね。どっちが悪かろうが自分から謝っておけばお互い気分がいいし、腹を立てることもない。見習おう。

2.ぶつかられても「すみません」。

体は重いながらも快調に走って20キロ到達。25キロくらいから体が痛くなる。肩、腰のあたり。うーん、はやいなあ。とりあえず30キロを目標にペース維持。
そして32キロを境に大減速。っていうかしんどくて歩いてしまう。そこからはスピードもなく、ジョグしては歩く、みたいな感じ。4時間のペースランナー集団に抜かれたところでまたモチベーションが下がる。

結局グロスで4時間18分。NETでも4時間16分くらいと思う。不本意。んあぁ。

たぶん靴選びに失敗した。ふだんはNikeのスピードライトというクッションのある奴なのだが、最近スピードレーサーというナイキでは最速カテゴ リーの靴を新調したので、これで走ったのだ。速い靴ってのは軽くて底が薄い。そのぶんクッションがない。だから着地のダメージが大きい。もうこういう靴で もいけるんちゃう?というのが過信であった。クッションないからダメージ大きくて早々からあちこち痛くなったのだろう。

3. エリートランナー向けのシューズはまだはやい。ハーフまでにしとけ。

あとでネットで確認してみると(このサービス便利)、20キロまではキロ5分20ペースで走ってて、そのあとどんどん崩れてるのがわかる。順位も25キロまでで1000人抜いた後、そのあとゴールまでで2000人に抜かれて、結果6847位。

くやしいが、3週間後の神戸のリハーサルってことでいっか。神戸では自己ベストを狙おう。3時間50分を切ろう。

沿道の応援の人が多くてしかも熱心でびっくりした。とくに西成のあたり。ここのおっちゃんおばちゃんはほんまいっしょうけんめい応援してくれて嬉しかった。
大阪らしく熱いおばちゃんもいて、疲労困憊して歩いているランナーに「歩いたらよけいしんどなる!止まったらあかん!」言うて、応援棒で叩いて無理矢理走らせていた。もちろん見ず知らずの人だと思う。
30キロ過ぎてからいろんな給食が出てきた。キュウリの塩漬けうまかった。でもコロッケとかいなりずしはさすがに食べにくいのでパス。

power gelは軽くて携帯に便利。でもまずい。10キロおきで3個消費。残り4キロくらいまでおなかは持った。

ゴール後はインテックスを脱出して鶴橋に行き、ひとり焼肉。ささやかなご褒美。

2011年7月18日月曜日

『幽霊たち』

白井晃演出の『幽霊たち』大阪公演に行く。

 佐々木蔵之助、奥田瑛二のほかに市川美香子さんがフィーチャーされたテレビCMを見て、女性といえば「未来のブルー夫人」くらいしか出てこない小説なのに、どうするんだろ?けっこう原作から書き換えてしまっているのか?と不安に思っていたが、過剰に役柄を拡大することもなく、そして全体的に、かなり原作に忠実な演出であった。ポール・オースターの手による原作は「なにも起こらない」状況を描いた小説だが、いくつかの意味ありげな逸話に彩られている。ブルックリンブリッジにまつわる親子の逸話。床に落とされ砕けてしまったホイットマンの脳みそ。氷に閉じ込められた自分より若い父親を発見する息子。ホーソーンの「ウェイクフィールド」。そういった逸話たちを舞台上でせりふで再現していく。
 舞台の上をキャストたちがさまざまに交錯しながら直線的に移動して舞台を転換していく様子は、作品の迷宮的なイメージをうまく再現していたし、主演二人のお芝居も見事であった。
 舞台と小説の構造的な違いも感じた。あの小説は「なにも起こらない」状況にとじこめられたブルーが混乱していく話だが、彼はあくまで「静かに」混乱していく。小説はそれを表現しうるが、舞台ではそれはなかなか表現できない。どうしても、叫び、身もだえし、涙を流すような身体的表現になってしまう。その言ってしまえば「大げさな混乱」に、原作の世界とは異なる印象を受けた。
 一方、原作と違っているところで面白かったのは、物語冒頭と最後の語りをブルーに語らせていること。とくに最後は、原作ではブルーがブラックと対峙して出て行ったあとに、突然その外部の語り手が登場し、「ブルーはこのあと中国に行ったということにしておこう」と、物語のリアリティを揺らがせる。今回の舞台では、その部分をブルーが語っている。原作に一番忠実な再現方法はおそらくナレーションで処理することだろうが、それをブルーが語ることで、彼が自分の物語に自分で結末をつけた格好になる。ブラックに取りこまれて自分の物語を失ってしまった男が、最後に自分の物語を取り返すのだ。と、同時に、そこまで語られた物語はすべてブルーの作り話である可能性も生まれる。これは大変面白いと思った。ほかにも、あの語り手がブラックだったら?とか今まで考えたことがなかったが、また別の読み方ができる可能性を教えてもらえた。

 ここまでの舞台をつくりあげるのは大変な作業であったことと思う。感謝したい。

2011年6月14日火曜日

『ブラック・スワン』

 「白鳥の湖」の主役を勝ち取ったバレリーナの内面が崩壊していく様を描く。
 とにかくこの主人公の内面に寄り添うことを主眼としているため、彼女が見る妄想や悪夢がそのままに再現される。その妄想や悪夢がショッキングなシーンばかりで、鏡の中に血を流した母親がいてビックリ、とかなんだかホラー映画みたいである。そしてそんなショッキングなシーンがこれでもかと重ねられていくうちにだんだんマンガ的になって笑えてくる。サム・ライミの『スペル』みたいに、怖いんだけど笑えてしまう、そんな感じ。そんなコワおもろシーンの頂点は、ウィノナ・ライダー演じる入院中のかつてのスターバレリーナが爪ヤスリを片手に"I'm nothing!"と叫びながら・・・な場面。
 しかしここまででこの映画を判断してはいけない。このシーン以降の実際の舞台シーン、これが圧巻であった。主役のニナが狂気にとらわれた末、実際にブラックスワンになっていく場面は、肌がブツブツだったのは、なるほど鳥肌であったか、あ、『ザ・フライ』みたい、とか思っているうちにものすごい迫力で展開していき、もう内面がどうとか理屈がどうとかいう以前にとにかく「スゴイ」。踊りきった彼女には羽根がないのに、影には羽根が移っている場面は、わかりやすいが印象的である。
 最終的には妄想が現実と重なって白鳥は死ぬ。
 終わってみればこれだけ物語がない映画というのも珍しい。とにかくナタリー・ポートマン演じる主人公がいかに追い込まれ、抑圧され、そこから自分を解放しようともがき、結果狂気に陥っていくかを、彼女の内面だけから描いており、プロットは言ってみればそれだけである。でも、それだけでも映画は成り立つし、本当に変な映画だなあとは思ったが、そういう破格なところもこの作品のいいところだと思う。
 献身的でありながら娘に過剰な期待をかけ、娘に完璧さを要求しながらその成功を妬みもする母親の姿が印象的であった。ニナが舞台で最後に見たのは母親の顔であるが、その過剰な期待に応えられた末に行き着いたこれまで以上に高いレベルの「完璧」さは、すべてを代償として要求するものであった。

2011年6月13日月曜日

リチャード・パワーズ The Echo Maker

 リチャード・パワーズはとてつもなく頭のよい作家である。知的好奇心に訴える題材を取り上げ、豊富な知識を駆使するのもさることながら、そのとてつもない頭の良さがもっとも発揮されているのはその構成力においてであろう。ザンダーの手による一枚の写真を中心に、同時進行する三つのプロットを交錯させて20世紀を描ききった『舞踏会へ向かう三人の農夫』に顕著なように、パワーズの小説の構成は緻密である。ひとつ外側の次元から俯瞰しているというか、並の作家が作品という世界を七転八倒しながらあっちでもないこっちでもないと手探りで進んでいるとしたら、それを外側からのぞき見てリモートコントロールで動かしているのがパワーズ、というくらいの違いがあろう。最初から全体の構成が「見えて」しまっている感じがする。もちろん小説というのは破綻している方がおもしろい場合もあるので、その隙のなさはあまりに完璧すぎて人によっては敬遠するかもしれないが、しかしここまで完璧に構成されれば、小説とはかくもエレガントになりうるのか、と一度読んでみればため息が出る。
 2006年に発表され全米図書賞を受賞した本作もまた、巧みな構成に支えられた作品である。どこまでも真っ平らなネブラスカのフリーウェイで牛肉工場で働く若者マークのトラックが車道を飛び出し転倒する。救出されたマークは脳に損傷を受け昏睡状態に陥るが、昏睡からさめたときにはキャプグラ・シンドロームを発症していた。自分に最も親しい人たちが、ホンモノではなく誰かがなりすましたニセモノに感じられる症状である。唯一の血縁である姉のキャリンが献身的に看病するが、マークにとっては彼女は誰かが陰謀のために送り込んだ姉によく似たニセモノである。マークは病室に残された謎のメッセージに事件の手がかりを求め、それを残した人物を捜そうとする。キャリンはマークを何とか救わんと著名な脳神経学者ウェバーに手紙を書き、自分の本の題材としてマークに関心を持ったウェバーはネブラスカにやってくる。こういた人間たちの記憶と個を巡る話の背後に常にあるのが、種としての集団的記憶に突き動かされて毎年この地に飛来するツルたちの存在であり、物語の後半には、鳥たちのための環境保護運動に取り組むダニエルと市場の論理で開発を進めるロバートという形で、この題材がプロットにも関わってくる。また、マークに残された謎のメッセージは一行ずつが各章の章題ともなっており、このあたりにもその構成の妙が見てとれるのである。
 個の意志など持たぬかのように集団の記憶で行動するツルとの対比であぶり出されるのは、あまりにも「個」に、そのエゴに固執してしまう人間の姿である。ただ、もちろんそんな単純な対比の話ではない。その人間の「個」でさえ、「私」という意識さえ、われわれが信じているほどに安定したものではなく、記憶によってようやく保たれている幻想に過ぎない。そしてキャプグラによって姉や愛犬がニセモノに見えてしまうマークの姿が逆に映しだしてみせるのは、我々の認識じたいが脳という装置によってつくられたヴァーチャルなモノである可能性、キャプグラでなくともそもそも現実世界がヴァーチャルであり、そしてそもそものこの小説という容れ物からしてヴァーチャルだという事実である。
 マーガレット・アトウッドが書評でこの作品は『オズの魔法使い』を下敷きにしているということを書いていて、それによるとキャリンがドロシーで、脳に損傷を受けたマークはかかし、自分がニセモノであると気づいてしまったウェバーはオズだという。だが、この指摘がおもしろく感じられたのは、これを読んだときに、この作品というよりも、パワーズその人が言っていたことが思い浮かんだからである。彼は「頭と心の両方にアピールする小説を書きたい」と言っていた。かかしの探している「脳」と、ぶりきの木こりが求めてやまない「心」である。「勇気」や"guts"のことは口にしていなかったが、なるほど彼の意識の奥底には『オズの魔法使い』があるのかもしれない。いや、むしろ逆か。頭と心の問題はずっとパワーズの意識の中にあって、だからこそそれが表出した作品がオズ的に見えたと言うことだろう。

2011年5月31日火曜日

取材ほか

・とある取材。研究の話をいろいろと話す。おもしろかっただろうか・・・。写真を何枚も撮られたけれどホントにあんなにいるのか?
・『マーク・トウェイン 研究と批評』10号に書評。

2011年5月2日月曜日

『キッズ・オールライト』

 レズビアンカップルと息子娘の4人の家族。自分の生物学上の父親がどんな人なのか興味を持った子供が精子提供者に連絡して会ったことから、4人の家族に変化が訪れる。
 「やっぱり家族はイイ!」「素敵な親子の絆!」みたいな安直な話ではないと思う。そう見る人も多いだろうけど。もっと軽い感じで、「いろいろあるよ、ここだって」な映画だと思う。
 ゲイのカップルは今では「正しい」。ある程度現代的なリベラルさを持った人なら、それが差別してはいけない対象だということを理解している。当然本人たちも、その子供たちも、自分たちが「正しい」ことを理解している。精子提供者のポールがそういう家庭にもたらしたのは、「間違い」だった。家族の一人はポールとともに「間違い」をおかし、あとの三人は「間違い」を断罪する。もちろんそれはほかの家族であっても「間違い」だし、断罪されることであろう。でも、あまりにも「正し」く、力の入った「正しさ」を持ったこの家庭だからこそ、「間違い」にどう向かうのかが大事だったのではないだろうか。
 結論はない。「あーよかった!」も「えーそんな!」もないまま物語は終わる。でもそれでいいのだと思う。「間違い」があったとき、簡単に壊れることも、簡単に消化してしまうこともないのが、家族なのであり、ここだってよそだって、ストレートだってゲイだって、どこいってもそりゃあいろいろあるもんだもの。

2011年4月23日土曜日

『アメリカ研究』45号

「紙の上のエメラルド・シティ---The Wonderful Wizard of Oz と紙幣制度---」

2011年3月7日月曜日

篠山ABCマラソン

 昨年に引き続き2度目の篠山。前回は雨だし寒いしで最後の方は力尽きて歩いてしまった。今年の目標は、①歩かず完走 ②自己ベスト3時間52分の更新 ③できれば40分台前半にのせたい、である。たぶん全部達成しちゃうだろうな、と思っていた。勝算ありなのである。というのも2月くらいからかなり走りこみ、事前に30キロランや40キロランもやったし、走りこみの結果体重も3キロほど減り、今までで一番軽い状態でのレースなのだ。
 朝5時起床。おにぎり2個、野菜ジュース、ヨーグルト、バナナ2本を食べて出発。三宮のマクドでマフィンセットを食す。バスで篠山へ。1時間半くらいで到着。8時の篠山は気温1度。寒い。今日は最高気温13度まで行くという予報であったが、結局その後もずっと寒かった。

 教訓1 「篠山は寒い」

 早い時間なので更衣テントもすいている。ゆっくり着替えながら、さらにバナナ3本とシリアルバー的なものを2本食す。全然食べたくないのだが、レースに備えて食べねば、と気持ち悪くなりながらも食べる。
 10時50分スタート。最初はやはり団子状態なのだが、なんだか体が重い。キロ6分くらいで走りだし、なかなかスピードが上がらない。5キロくらいまでこんなかんじ。ああ、これは明らかに食べすぎだな。

 教訓2 「食べすぎはあかん」

 すこしずつペースを上げてキロ5分20-10くらいで走る。でもやっぱり体が重い感じ。あんまり快調ではない。とはいえ20キロくらいまではあっという間。
 このあたりで早くも肩やおしりにちょっと痛みが。早すぎるなあ。それでもペースは崩さず30キロ過ぎの折り返し地点へ。去年はこのあとがしんどかったんだよなあ。今年はなんとか持ちこたえたい。
 しかしやっぱりしんどくなってきた。だんだんペースが落ちてくる。残り7キロくらいで、5分40くらいのペースに落ちる。残り5キロ、5分40のペースのまま行ければ3時間50分は切れる計算、なんとかがんばってペース維持。
 残り4キロ、ずるずるとペースが落ちる。ガス欠ではなくて足に乳酸がたまった感じ。太ももが張る。足が動かない。しんどい。もういつでも歩いてしまいそうなかんじだが、意地で踏み続ける。キロ6分を超え6分30秒を超える。スピードが落ちるのと反比例してゴールまでの距離は長く感じられていくから、最後の2,3キロはほんとにしんどかった。

 結果3時間53分。歩くことこそなかったものの、40分台どころか自己ベストの更新もならず。

 ゴール後あまりにしんどく、しかもおなかもすいてない。お風呂に行く気にもならず、おみやげ買ってバス乗って帰宅。

 うちでペース記録を見てみると30キロまでは順調でそのあとは落ちて行っているのがわかる。今の体力だとまだ30キロってことですな。最後の5キロを軽やかに走るにはどうしたらよいのか?もっと体重を落とす?脚力をつける?うーん、わからん。

 しかし「篠山はつらい」という印象がまた強くなった一日であった。 

2011年2月10日木曜日

ポール・オースター Sunset Park

 Invisibleを読了したら勢いづいて最新作のSunset Parkも読まずにはいられなくなった。ここ10年くらいオースターの小説にはハズレがない。しかも発表のペースもあがっている。まさに円熟期。

 28歳の青年マイルズは大学をドロップアウトし、破産した人が追い出された後の住宅を片づけるtrashing outという仕事をやっている。将来のあてもなく各地でその場限りの仕事を転々とし、ここフロリダに流れ着いた。彼はその住居を立ち去った人々が残した生活のあとを写真に収める。
 マイルズはピラーという女性と恋に落ちるが、問題は彼女が18歳に達していないということ。成人が18歳に達していない者と性的な関係を結ぶのは違法である。マイルズはピラーと同居を始めるが、ピラーの姉に、警察にタレこむと脅され、友人が住む故郷ブルックリンはサンセットパークへ引っ越す。ここもまた見捨てられた家々が立ち並ぶ場所で、友人ビングはそのうちのひとつに不法に住み着いている。大学院生で文学の博士論文を書いているアリス、不動産会社で働く傍ら絵を書くエレンとの4人の共同生活が始まる。
 4人の共同生活で思い出したのは吉田修一の『パレード』で、本作も各章で焦点を当てられる人物は変わっていくのだが、『パレード』みたいに1人称の語りではないし、「語り手が語らないけどみんなが気付いていること」をめぐるお話でもない。
 生まれて3カ月で家を出て行った母親、継母ウィラとその息子でマイルズの義理の兄ボビー、彼が死亡した秘密が語られ、マイルズが大学を辞めて7年半もの長きにわたって各地を転々としたきっかけが明かされる。

 7年半もの失踪ののちNYに戻ってきたマイルズを実の母親で女優のメアリー・リーが迎える場面がいい。息子を歓迎したいがなんせ7年の間にどう変わったかわからない。食べ物の好みも変わってしまったかもしれない。彼女はふたつのレストランにケータリングを注文してステーキとベジタリアン料理を用意する。赤ワインとスコッチが好きだった息子だが、今は違うかもしれない。彼女はジン、ウォッカ、テキーラなどあらゆる酒を用意する。ところがやってきた息子はもうお酒は飲まないのだと言う。しかし彼もその年月に向かう緊張を解くために、この日ばかりはワインを口にするのだ。

 複数の人物が交錯する物語をつなぐ線として登場する映画『我等の人生の最良の年』、父と息子をつなぐ細い線である野球選手のエピソード、PEN事務局で働き始めたアリスのエピソードに出てくる、昨年ノーベル平和賞を受賞した中国の活動家Liu Xiaobo(オースターは彼の詩をPENで朗読している)。こうしたエピソードでつながりながら、サンセットパークの家に住み着いた4人とマイルズを取り巻く家族の物語が展開していく。

 アリスは言う。『我等の人生の最良の年』の時代の男たちはしゃべらない。一方で今の男たちはしゃべりすぎる。そして、映画で腕を失った元軍人がそうであるように、人は傷を負ってはじめて大人になるのだと。
 これはマイルズが小学生の時に書いた『アラバマ物語』のレポートが書いていることでもある。人は傷を負うまで大人にはなれない。本の最後にのっているが、どうやらこのレポートはオースターの娘の実際のレポートがネタらしく、そのあたりは微笑ましい。

 映画の元軍人は腕を失くし、最後にマイルズは警官を殴って拳を腫らす。そして最後のページで描かれるのは、これまた失われてしまった両腕であるかのようなツインタワーである。『スモーク』で腕を失くしたのは父親であった。今は腕を失くしているのは息子である。

 21世紀、不況後のアメリカの現実を舞台に、未来を見つけられない若者たちが抱える閉塞感が描かれる。そこに向けられる眼差しは、やさしい。

2011年2月8日火曜日

集中講義

1月17日から20日、福岡女子大大学院で集中講義、無事終了。メルヴィルの"Bartleby"について。

2011年2月2日水曜日

ポール・オースター Invisible

 ずっと買ったまま読まずにいたのだが、はやくも次のSunset Parkが出てしまったので、ようやくInvisibleを読む。

 Brooklyn Folliesの書評で"postmodern pageturner"ってのがあって、うまいこと言うな、と思っていた。オースターの良さはまさにその通りである程度のポストモダンな感じ、実験性はありながらも、通常「ポストモダン小説」と言って思い起こされる小説たちより、はるかに読みやすい、いや読みやすいというより読んで楽しい、読まずにいられない、くらいに読者を引っ張るその物語としての面白さにあるのだと思う。本作もいったん読み始めたらぐいぐい引き込まれた。コロンビア大学のブッキッシュな学生Adam Walkerが客員教授のBornとその恋人Margotと出会い、文芸誌出版の話を持ちかけられる。60年代のコロンビア大、詩を書く主人公、『ムーン・パレス』みたいな自伝的小説なのかな、と思っていると主人公の身に突然の事件が起こる。
 ここでまずはひとひねり。次の章で、ここまでの物語がAdamから送られてきた原稿だと明かされる。そして、それを読んだ外側の語り手としての作家Jimが登場する。ここで我々が没入していた物語の信ぴょう性が一段階低められる。ん?これはホントの話なの?それとも創作?
 コロンビアの同期生であったJimは40年も会っていなかった友人から届いた原稿を読み、彼と会う約束をする。そして続きが書きすすめられないというAdamにちょっとしたアドバイスを送る。視点を変えて自分を客観的に見てはどうか?と。自分は一人称で書いて行き詰った時、そのinvisibleになってしまった自分を、三人称で書くことによって解決できたんだ。
 ここで次のひとひねり。新たに届いた原稿として作品内で展開されるAdamの手記はなんと「二人称」で書かれているのだ。なつかしいJay McInerneyのBright Lights, Big Cityと同じ、自分への語りかけである。このあたりでもう「うーん、やられたなあ」と感心することしきりである。
 原稿は残されたが書き手は死んでしまう。死んで原稿を誰かに託すのはオースターおなじみの仕掛けで、『鍵のかかった部屋』も『ミスター・ヴァーティゴ』もそうだった。原稿を再現しているのは託されたJimであり、彼は原稿に手を加えている。Adamの手記には姉との関係に関するショッキングな記述があるが、姉本人はそれは事実と違うと言う。どちらが本当なのかは分からない。Jimが書き加えていないとも言い切れない。そもそもInvisibleという作品自体がフィクションなはずなのに、読者はどこまでが事実で誰が嘘をついているのかわからず、それが気になってしょうがない。Bornが起こした事件の真相もわからない。彼自身がフィクションのアイディアとして語る2重スパイの話、その結果仲間を殺さなくてはならなくなったという話を、Cecileは事実ととらえる。自分の父を交通事故を装って植物人間にしたのはこの男だ、と。しかし真相はわからない。最後までわからない。
 Adamの手記を出版したいがそのままでは実在する人物(あるいは自分?)を傷つけてしまうと考えたGwynは、これを書きなおして人名や場所を変えて出版すればいいという。しかも著者はJimとして。Bornも自分の秘密を本にしようとCecileに持ちかけ、それをCecileの名で出版することを提案する。
 オースターは作者とはなんなのかということに強い関心を持っている作家である。ぼくらは作家とは一人の統一した人格を持った主体であると信じて疑わない。批評理論が「作者の意図」をいくら殺しても、それでも「作者」は厳然と存在していて、一群のテクストはその生みの親である一人の人間にその源をもつと信じて疑わない。でも本当にそうなのか?本の表紙にのっている名前が一緒でも、書いた人はホントは違うかもしれない。Adamの手記はJimの名前で出版されるかもしれないし、だとすれば一番外側の箱であるPaul Auster著Invisibleも、ホントはぼくらの知っているオースターではない人が書いたのかもしれないではないか。

 そういうことを考えさせてくれるオースターの作品はやはりおもしろい、
 
 と思っている自分もやはり「作者」の存在を信じ切ってそれにとらわれてしまっているのだが。
 

2011年2月1日火曜日

『ソーシャルネットワーク』

 フェイスブックを開発したハーバード大学生たちのお話。ものすごい知力をもつがイケてないオタクたちが、大学というある意味外の世界以上に階級を作り出す社会の頂点に位置する持てる者(モテる者)たちを出し抜き、サイトを広め、事業を拡大し、そのなかで別れていく。
 主演のマーク役の、人の感情を全く考えない不遜ぶりがうまかった。
 彼がフェイスブックを作ったきっかけはエリカというガールフレンドに振られ、彼女を見返してやろうとしたことがきっかけだが、最後の場面で彼は自分が作ったフェイスブックを通して彼女にコンタクトを取ろうとする。ジャスティン・ティンバーレイク演じるナップスター創始者のショーンは、自分がナップスターを作ったのも女性への復讐(?)だと言い、その後彼女に連絡を取ったかと問うマークにNOと答える。最後の場面はこのショーンの態度と対照をなすが、でも、最後の場面のマークが、最初のマークからなにか変っているのかというとそういう感じはまったくしないのである。
 全編を通じて感じたのは、ものすごい影響力をもつものを開発し、巨万の富を得たにもかかわらず、彼には自分が欲しいものが最初から最後までわかっていないのではないかということ。そういう意味で彼には「成熟」がなく、その成熟のなさはショーンも共有するもので、それがジャスティンのとっつあん坊や的ルックスにうまく凝縮されている気がした。