2011年6月14日火曜日

『ブラック・スワン』

 「白鳥の湖」の主役を勝ち取ったバレリーナの内面が崩壊していく様を描く。
 とにかくこの主人公の内面に寄り添うことを主眼としているため、彼女が見る妄想や悪夢がそのままに再現される。その妄想や悪夢がショッキングなシーンばかりで、鏡の中に血を流した母親がいてビックリ、とかなんだかホラー映画みたいである。そしてそんなショッキングなシーンがこれでもかと重ねられていくうちにだんだんマンガ的になって笑えてくる。サム・ライミの『スペル』みたいに、怖いんだけど笑えてしまう、そんな感じ。そんなコワおもろシーンの頂点は、ウィノナ・ライダー演じる入院中のかつてのスターバレリーナが爪ヤスリを片手に"I'm nothing!"と叫びながら・・・な場面。
 しかしここまででこの映画を判断してはいけない。このシーン以降の実際の舞台シーン、これが圧巻であった。主役のニナが狂気にとらわれた末、実際にブラックスワンになっていく場面は、肌がブツブツだったのは、なるほど鳥肌であったか、あ、『ザ・フライ』みたい、とか思っているうちにものすごい迫力で展開していき、もう内面がどうとか理屈がどうとかいう以前にとにかく「スゴイ」。踊りきった彼女には羽根がないのに、影には羽根が移っている場面は、わかりやすいが印象的である。
 最終的には妄想が現実と重なって白鳥は死ぬ。
 終わってみればこれだけ物語がない映画というのも珍しい。とにかくナタリー・ポートマン演じる主人公がいかに追い込まれ、抑圧され、そこから自分を解放しようともがき、結果狂気に陥っていくかを、彼女の内面だけから描いており、プロットは言ってみればそれだけである。でも、それだけでも映画は成り立つし、本当に変な映画だなあとは思ったが、そういう破格なところもこの作品のいいところだと思う。
 献身的でありながら娘に過剰な期待をかけ、娘に完璧さを要求しながらその成功を妬みもする母親の姿が印象的であった。ニナが舞台で最後に見たのは母親の顔であるが、その過剰な期待に応えられた末に行き着いたこれまで以上に高いレベルの「完璧」さは、すべてを代償として要求するものであった。

2011年6月13日月曜日

リチャード・パワーズ The Echo Maker

 リチャード・パワーズはとてつもなく頭のよい作家である。知的好奇心に訴える題材を取り上げ、豊富な知識を駆使するのもさることながら、そのとてつもない頭の良さがもっとも発揮されているのはその構成力においてであろう。ザンダーの手による一枚の写真を中心に、同時進行する三つのプロットを交錯させて20世紀を描ききった『舞踏会へ向かう三人の農夫』に顕著なように、パワーズの小説の構成は緻密である。ひとつ外側の次元から俯瞰しているというか、並の作家が作品という世界を七転八倒しながらあっちでもないこっちでもないと手探りで進んでいるとしたら、それを外側からのぞき見てリモートコントロールで動かしているのがパワーズ、というくらいの違いがあろう。最初から全体の構成が「見えて」しまっている感じがする。もちろん小説というのは破綻している方がおもしろい場合もあるので、その隙のなさはあまりに完璧すぎて人によっては敬遠するかもしれないが、しかしここまで完璧に構成されれば、小説とはかくもエレガントになりうるのか、と一度読んでみればため息が出る。
 2006年に発表され全米図書賞を受賞した本作もまた、巧みな構成に支えられた作品である。どこまでも真っ平らなネブラスカのフリーウェイで牛肉工場で働く若者マークのトラックが車道を飛び出し転倒する。救出されたマークは脳に損傷を受け昏睡状態に陥るが、昏睡からさめたときにはキャプグラ・シンドロームを発症していた。自分に最も親しい人たちが、ホンモノではなく誰かがなりすましたニセモノに感じられる症状である。唯一の血縁である姉のキャリンが献身的に看病するが、マークにとっては彼女は誰かが陰謀のために送り込んだ姉によく似たニセモノである。マークは病室に残された謎のメッセージに事件の手がかりを求め、それを残した人物を捜そうとする。キャリンはマークを何とか救わんと著名な脳神経学者ウェバーに手紙を書き、自分の本の題材としてマークに関心を持ったウェバーはネブラスカにやってくる。こういた人間たちの記憶と個を巡る話の背後に常にあるのが、種としての集団的記憶に突き動かされて毎年この地に飛来するツルたちの存在であり、物語の後半には、鳥たちのための環境保護運動に取り組むダニエルと市場の論理で開発を進めるロバートという形で、この題材がプロットにも関わってくる。また、マークに残された謎のメッセージは一行ずつが各章の章題ともなっており、このあたりにもその構成の妙が見てとれるのである。
 個の意志など持たぬかのように集団の記憶で行動するツルとの対比であぶり出されるのは、あまりにも「個」に、そのエゴに固執してしまう人間の姿である。ただ、もちろんそんな単純な対比の話ではない。その人間の「個」でさえ、「私」という意識さえ、われわれが信じているほどに安定したものではなく、記憶によってようやく保たれている幻想に過ぎない。そしてキャプグラによって姉や愛犬がニセモノに見えてしまうマークの姿が逆に映しだしてみせるのは、我々の認識じたいが脳という装置によってつくられたヴァーチャルなモノである可能性、キャプグラでなくともそもそも現実世界がヴァーチャルであり、そしてそもそものこの小説という容れ物からしてヴァーチャルだという事実である。
 マーガレット・アトウッドが書評でこの作品は『オズの魔法使い』を下敷きにしているということを書いていて、それによるとキャリンがドロシーで、脳に損傷を受けたマークはかかし、自分がニセモノであると気づいてしまったウェバーはオズだという。だが、この指摘がおもしろく感じられたのは、これを読んだときに、この作品というよりも、パワーズその人が言っていたことが思い浮かんだからである。彼は「頭と心の両方にアピールする小説を書きたい」と言っていた。かかしの探している「脳」と、ぶりきの木こりが求めてやまない「心」である。「勇気」や"guts"のことは口にしていなかったが、なるほど彼の意識の奥底には『オズの魔法使い』があるのかもしれない。いや、むしろ逆か。頭と心の問題はずっとパワーズの意識の中にあって、だからこそそれが表出した作品がオズ的に見えたと言うことだろう。