2018年7月13日金曜日

(予告)Etgar Keret: Based on a True Story上映会 & 温又柔、福永信、木村友祐さんのシンポジウム「今、この世界で、物語を語ることの意味」

予告です。まだ4カ月先ですが、関心のある方にはあらかじめ予定を空けておいてほしいので、早めの予告です。

11月17日(土)午後に神戸市東灘区の甲南大学で文芸イベントを開催いたします。豪華二本立てです。一般の方にもオープンの、かつ入場無料です。

第一部はイスラエルの作家エトガル・ケレットその人と彼の作品を巡るハイブリッド・ドキュメンタリー映画 Etgar Keret: Based on a True Story (Stephane Kaas監督 2017)の上映会。




日本語字幕付きで、日本初公開!これを逃したらたぶんしばらく日本では見られません。
不思議なストーリーを生み出すおもしろおじさんエトガル・ケレットのファンの方はもちろん、ファンじゃなくてもこの映画を観たらケレットさんに会いたくなること確実です。本人主演で実写とアニメーションを織り交ぜたとてもよくできた映画です。ぜひ見に来てください。

第二部は作家の温又柔さん、福永信さん、木村友祐さんをお招きしたシンポジウム「今、この世界で、物語を語る意味」です。

ケレットさんからも短いビデオ・メッセージをもらい、そこを出発点として、いまの日本の文学を代表する3名の作家に、小説を紡ぎ発表することの意味についてお話していただきます。「今、この世界」の含意としては「文学が読まれなくなっている」今、この世界でもありますし、「他者への不寛容さが世界的に広がりつつある」今、この世界でもあります。


http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309026954/  http://www.shinchosha.co.jp/book/324731/  http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601195

「台湾生まれ、日本語育ち」で、国や文化や言語の境界の暴力性への違和感を表明する温さん、震災やホームレスといった今の日本社会が「なかったことにしようとしている」現実を鋭くえぐって読者につきつける木村さん、そして実験的、遊戯的な手法で日本文学の最前線で軽やかに遊び続ける福永さん。こんなメンツが3人も揃うなんて、これまた豪華です。どんなお話になるのやら、楽しみです。

 

現在ポスター等鋭意作成中。近くなりましたら大学サイトより参加申し込み受け付けを致します。スケジュールを空けてお待ちください!

2018年7月9日月曜日

木村友祐「生きものとして狂うこと」

 木村友祐さんのスピーチが載っている『新潮』を買ってきた。早速読んだ。まずはこれを書ききって発表した勇気を称えたい。
 木村さんが表明しているのは、誰もが狂ってもおかしくないほどのあの震災があって、われわれの日常の初期条件さえ変わってしまったあとなのに、震災前と同じような書き方を続ける文学とは、そしてそれを書く作家とは何なのか?という違和感である。別に個人を挙げて攻撃しているわけではないし、悪意があるわけでもない。でも、自覚のある作家は痛いところを突かれた、と思うだろうし、なにも思わないならその人はよっぽどぼんやり生きているのだろう。波風は立つだろう。例の被災者を扱った「美しい顔」と並べて論じる人も出てくるだろう。火種である。だから勇気を称えたい。
 

 ワタシは木村さんと同じ青森県の出身である。高校の時に現代文の教師が「青森県だっきゃ(っていうのは)日本のごみ捨て場だんだよ。原発、核燃サイクル、原子力船むつ。ごみばっかり持って来られるんだ」と言っていたのを覚えている。よくわからなかったが「ごみ捨て場にいるのはいやだなあ」と思った。テレビのニュースでは原子力船の寄港や原発に反対する人たちの運動の様子が時折映されたが、「この人たちはなんで反対反対ってやってんだ?」という以上のことは考えなかった。そして高校を卒業してからはずっと地元を離れている。「ごみ捨て場」だから離れたわけではないが、「離れられてラッキー」という思いが全くないかと言えば、正直、そんなことはなくて、物理的に離れたからいやなものを見ずに生きて来れたし考えずに済んだのだ。「憂鬱な現実」から目を背けることができた。

 2011年に東北で震災が起こった。津波で多くの方が亡くなった。福島の原発はいつになったら廃炉できるのかわからない。われわれは気の遠くなるほど長期的な、いつまでも続く「憂鬱な現実」を生きるほかなくなった。それでも人は辛いのはいやだから、辛い現実ばっかり見ていると狂うから、目を背けるし、安くても「絆」とか「がんばろう」といった物語にすがる。それじたいは生きていくための手段だし、あんまり批判したくはない。
 ただ、政治は別だ。オリンピックを呼ぶために福島の原発は「アンダー・コントロール」だと嘘をついたこの国の首相。そしてあれだけの事故が起こったのに原発再稼働に突き進む現政権。安い物語を利用し、それを信じる人々を利用する政治。まさに「あったことを無理やりなかったことにしようとしている」のが今の政治だ。
 だから、この震災に反応しないまま、震災前と同じ書き方をしている「文学」は、この政治の動きを「追認」してしまうことになる、と木村さんは言う。もちろん皆がみな震災を書くべきだという訳ではないし、スタイルは作家それぞれだろうと思うが、しかし、たしかに日本の小説は震災前と震災後でなにか変ったのかと言われれば、そこに劇的な変化はなかったように思う。
 
 消化できないような巨大な惨事を目の当たりにしたとき、それを受け止める助けをしてくれるのがことばだと思う。不条理を馴化してくれるわけでもなければ、理解可能なものにしてくれるわけでもなく、ニュースのことばとも違う、ぶんがくのことば、そういうものがあるはずだと思う。95年の震災のとき、ワタシは97年の草野正宗の書くスピッツの「運命の人」の歌詞にぶんがくのことばを、2011年の震災のあとにはトモフスキーの『いい星じゃんか』というアルバムの歌詞にぶんがくのことばを見つけた。木村さんの『イサの氾濫』は、ワタシにとってそういうぶんがくのことばのひとつだ。これを読んで震災に慣れたわけでもなければ理解できたわけでもない。でも、理解不能なでかいものを受け止める手助けとなったことばだ。だから『イサの氾濫』はワタシにとって大事な一冊だ。
 
 文学はどうするのか?
 
 思い出した(というか今まで忘れているくらいに自分も自分の思いを「なかったことに」してきたのかもしれない)。ワタシは大学の文学部で教え「文学研究」という制度化された世界で「文学」のそばにいるが、あの震災のあと、喰うことや住むことにも困る人がたくさんいるなか、世界に何も影響を与えない「文学研究」なんてなんの意味があるのか?ないじゃん、無駄だ、ってしばらく思っていた。今も思っている部分はある。
 
 でも、木村さんのような「声」を聞き、それを必要としている人にすこしでも届けるパイプになれたら、きっと意味はあるのだと思う。