2015年7月25日土曜日

エトガルと新宿で 3

2月にエトガル・ケレットが来日して会いに行ったときのことを書こうとしていたのだが、前日までの話を書いた時点で時間がなくなってしまって、書かないまま半年も経ってしまった!

といっても書き留めていなかったわけではなく、大学のゼミの卒論集にはこのときのとこをエッセイにして掲載していたのでした。ので、それをここに載せようと思う。書いたのは東京でエトガルに会って帰ってきてまだ3日の3月3日のこと。読み返してみるとわれながらかなりののぼせ具合である。



エトガル・ケレットのこと

 201533日の今、私はまだぽわーんとしている。なぜか?3日前まで東京にいて、エトガル・ケレットに会ってきたからだ。エトガル・ケレットはみなさんもご存じの(そして日本では今回の短編集が出るまでほぼ知られていなかったから、みなさんはかなり早くからケレットを知っていたわけでそれは大いに自慢してもらいたい)とおり、イスラエルの作家で、ゼミでも彼の“Lieland” や “Guava” を読んだので記憶している方も多いと思う。そのケレットの日本で最初の短編集が新潮社から228日に発売され(上記2作品も入っている)、そのプロモーションのために来日したのである。以前からケレットの作品を出したいと出版社に掛け合ってきて、昨年東京の文芸フェスで本人と会ってからはメールでやりとりを続け、いくつかのエッセイを翻訳して発表していた私は、S社さんから声をかけられて、東京まで行ってきたのだ。3日間。しかも1日目は二人で食事までしたし、2日目はイベントのあとの打ち上げまで厚かましくも参加したのである。その余韻がいまだに冷めず、それでぽわーんとしているのだ。

 今回の来日の話を聞いて、ぜひ会いたい!と言ったものの、ま、イベントで会うくらいだろうな、取材もあって忙しいだろうし、と思っていた。それが、来日4日前に、「26日の夕方に二人で食事に行ってください」とS社さんから連絡が来て大興奮。おー、二人で食事?やった!そして大興奮のあと、大不安に陥った。

どうしよう?二人っきりで話が盛り上がらなかったらどうしよう?こんなバカに翻訳は任せられないって思われたらどうしよう?それに、よく考えたら東京じたい住んでいたのが20年近く前で、もうよく知らない。どこに連れていったらいいの?食事だって、なに?やっぱりお客様だからちょっといいレストランがいいの?それとも居酒屋的な?あるいはカジュアルにラーメンでも食べてもらって、これがホントの日本食だぜ!みたいのがいいの?あーどしよう?むしろ。もし他の国もまわって来てて母国を長く離れていたら、イスラエル料理がいいのか?いや、でもイスラエルレストランなんてあるのか?

 もともと緊張しがちな私であるが、このあたりからもう頭のなかがカオスである。頭がいっぱいかつ緊張度が高まっていき、さらに回らなくなる。うーん、どうしよどうしよどうしよ?どうしようもないのである。実はそこから26日までの記憶が薄い。テンパってる私になにか話しかけても要領を得ないのを見て、奥さんは「どうも頭の2パーセントしか動いてへんみたいやな」と言ったが、そのとおりである。2パーセントでよく乗り切ったもんだ。お店の予約で迷っているとまた新たな情報が。昼にアテンドする翻訳者のMさんによればケレットさん、なんとベジタリアンだという。しかも変わってて、肉ダメ、魚は生はイケるけど調理したのはダメ、という謎の基準である(あとでその理由は判明する)。じゃあ、寿司か?でも前日の晩空港まで迎えに行く予定の編集のSさんは寿司に行くと言っていた。昼のMさんは去年寿司に行ったと言っていた。きっと寿司が続く。そこにまた寿司ではうんざりではないか!

こういうときには人に聞くのがよい。高校の同級生でかつて歌舞伎町で居酒屋店長、現在司法書士のTくんにフェイスブックで聞いてみる。飲食関係の友人たちにあたってくれて続々情報が入ってくる。さすがだ。外国人の接待に使われるNINJAというレストランがいいらしい。ベジタリアンメニューもある。スタッフが忍者の衣装、でも料理は高級だという。NINJA!これは喜んでくれそうではないか。早速予約の電話。しかし5時か8時しか空いてない。5時は早いし8時は遅い。しかも時間通りに来ないとすぐキャンセルだという。もうちょっとフレキシブルにいかんものか。こちらは当日になっていろいろ変更もありうるのだよ。でもしょうがないので一応5時をおさえ、行けなかった場合の2の矢を探す。迷いに迷って駅近くのちょっと高級な和食をおさえる。ホッ。

食事のあては決まった。しかしまだまだ不安は尽きない。あー緊張する。もう行くの止めようかなぁ。なんて思う。出発日の前夜、12時に床に就いた私は130に目を覚ました。ぱっと寝て朝までまず目が覚めない人なのに夜中にパチッと目が覚めた。異常事態である。アメリカでおもしろがって買ったまま飲まずにいたSleepAid的な錠剤を飲んでみる。すぐ寝た。

いよいよ当日。出発は昼前の予定。緊張で朦朧としながらアトム氏の相手をする。アトム氏の種族は脱力の天才である。緊張とは無縁。うらやましい。新幹線に乗る。昼なのでなにか食べなくてはいけないが食欲がない。おにぎり一個食べる。東京につきホテルにチェエックイン。まだ時間がある。ボーっと過ごす。約束の4時が近づいてきてホテルを出る。お腹はすかないままだが、すきっ腹にお酒を入れると悪酔いしかねないと思い、スムージー的なものをコンビニで買って飲む。雨の降る中新宿へ。出口がたくさんあってやはり迷う。

駅員さんに聞きながら、なんとか高島屋とつながった東急ハンズに時間通り到着。ここで昼のアテンドのMさんから引き継ぐ予定なのだ。ドキドキ、ドキドキ。

ここでM袋さんから電話が。ちょっと遅れるという。ドキドキ、ドキドキ。10分たつ。まだ来ない。ドキドキ、ドキドキ。20分たつ。まだ来ない。さすがにそんな長くは緊張していられず、だんだん力が抜けてきた。と、そこに二人が到着。見覚えのある顔が。挨拶を交わす。腰が低い。あちらも照れてる。I’ve been really excited to see you, but at the same time I’ve been really nervous! なんて正直に言うと、なんで緊張するの?って言うので、あなたのことホントに尊敬してるから、と答える。すると、いや、僕のことを知れば知るほど尊敬しなくなるだろうから大丈夫!って。和む。そして「水たまりにはまって足びちょびちょだからさっき買った靴下に履き替えるよ」と言う。椅子を探して履き替えさせる。「奥さんによくまるで子供ねって言われるんだ」。うん、まさにそうだ。なんと愛らしいことか。

そこからはもう超リラックスであった。おしゃべりしながら買い物に付き合う。ハンズで9歳の息子レフのためのお土産を物色。いろんな国に行くけど買い物に行くのは日本だけなんだ、と言うので、これは日本の技術力をお伝えしようと、針のいらないホチキスや消せるボールペンなど進めると、次から次に買っていく。決断が早い。レフのおもちゃなんかも買う。その間もずっと、「買い物よりせっかくなのでコーヒーでも飲みながら文学の話をしよう」と気を遣って言ってくれる。それはあとで食事の時にってことで買い物を楽しみ、いったんホテルに荷物を置いてから、ユニクロへ。真っ赤なフードつきスウェットを買う。「おれ、こっちがいいと思うよ」と迷彩柄を勧めるが、「いや、軍隊にいたから迷彩柄は嫌いなんだ」とエトガル。そうであった。イスラエルは兵役のある国だ。迷彩柄がファッションでしかないお気楽なこの国とは違う。奥さんや子供の服を選び、自分用にTシャツを買った。「サンフランシスコ」とカタカナで書いたケーブルカーの絵のついたTシャツを勧めた。日本に来てアメリカの地名が書いたTシャツを買うというのがなんかおもしろい気がしたからだ。アメリカの地名だけどそれを記す言語は日本語で、それはいろんな国と言語を越えてやりとりする彼の執筆とかぼくの翻訳とかのありようとなんだか似ている気がしたのだ。
支払いの時免税の手続きをしようとするが、これをすると空港でまた手続きがあると知ってやめる。そういうお役所的やりとりが嫌いなんだと言う。おれの両親はホロコーストの生き残りだから、こういう書類を見せて許可をもらうみたいな状況にはナーバスになってしまうんだ、って。彼の人生にはぼくには想像もつかないような苦悩があって、だからこそのあのユーモアなのだと思い知った。
結局NINJAは時間が合わず第2候補の和食を食べに行き、豆や野菜、卵などを食す。エトガルは熱燗で日本酒。私はビールである。いろんな話をした。イスラエルのこと。いろんな作家のこと。家族のこと。おまえの家族のことを教えてくれよ、と気遣ってくれる。奥さんとアトム氏の写真も見せた。お互いの個人的な話もした。40年も生きていればそれなりに思うようにいかないこともある。それを彼と共有できたのが嬉しい。
翌日取材が入っているのであまり遅くなるわけにもいかず、タクシーでホテルまで送って別れを告げる。この日のために作っておいた家族三人分の千社札シールをプレゼントし、エトガルからは最新作のオーディオCDをもらった。

夢のような夜だった。

その後二晩に渡ってエトガルは日本の作家とのトークショーや取材をこなし、日本の読者をそのストーリーテラー力で魅了した。最後の日、神戸に戻らなくてはいけない私は、トークショーのおわりに別れを告げに行き、ハグをかわし、近い将来の再会を誓い合った。

それから3日たち、いまでもぽわーんとしている。うちで「あのさ、エトガルがさ、エトガルが」「ケレットさんはね、ケレットさんはね」とエトガル・ケレットのことばかり口走る私を見て奥さんが一言。

「なんやそれ。ケレットさんケレットさんって・・・ 恋か!」

 恋?

 あ、そうか。恋か。

たぶんあれはエトガルとの初デートだったのだな。

2015年7月10日金曜日

福永信さん公開講演会「ぼくはこうして作家になった。しかし・・・」が終わってしまってさみしい。

 7月9日に甲南大学甲友会館で作家福永信さんの公開講演会「ぼくはこうして作家になった。しかし・・・」が開催された。福永さんには2月のエトガルのイベントではじめてお会いし、それをきっかけに、うちの大学で学生になにかお話ししてもらえないかと思い、授業の中で公開講演会をお願いした。すぐにご快諾いただき、そこからここ3ヶ月ほど、常にワタシの頭の中心にはこのイベントのことがあった。院生のAさんが右腕になってくれて、なにか思いついてはAさんに話し、ほぼ二人だけでちょっとずつちょっとずつ準備した。チラシやポスターを作り、デジタル掲示板用のファイルを作り、学外にもチラシを置かせてもらいに行ったりした。大変でもあったけれど、それはやはりお祭り感覚なのでしんどくても楽しいしワクワクした。

 福永さんには「ぼくはこうして作家になった」というタイトルでお話してほしいとお願いした。想定した目的はふたつあって、一つ目は、文学部で学ぶ学生に、文学というものが外国とか昔とか自分の生活からかけ離れたところにばかりあるものではなく、教室や教科書の中にばかりあるものでもなく、今生きているこの世界に存在するアクチュアルな現象なのだと言うことを伝えたかった。それには作家に会わせるのが一番だと思った。

 二つ目の目的は「シューカツ」の外にもキャリアの可能性は開けているということを伝えること。最近の学生を見ていて思うのは、大学に入ってすぐからして就職のことを考えさせられて窮屈そう、そして4年生になって、シューカツでむぎゅーってなっちゃう子が多いなあ、でもそれは自然なことだよなあってことである。「シューカツ」は人生のキャリア選択においてほんの小さなカタログに過ぎない。そこには自分にあった会社ややりたい職種はないかもしれない、それなのにそこで競争して内定を勝ち取らないとダメ、みたいなところに彼らは追い込まれる。親や社会、そして最近は大学や教員によってもだ。これ、なんだかおかしい。「シューカツ」の外にある仕事に就く人も、誰もしていない新しい仕事を自分で作る人も、あるいは「働かない」という選択だってアリなはず。世の中色んな人間が「いてよし」だと思うのだ。だから、シューカツがすべてじゃないですよ、その外にもっともっと広い可能性がありますよ、ということを知って欲しいと思った。それがあるってのを知っているといないとでは、たとえシューカツに向かうにせよ全然気持ちの持ちようが違うんではないかと。そしてそのためには「シューカツ」ではつけない「作家」という仕事を見せるのがいいのではないかと思ったのだ。

 そこで福永さんにこのタイトルを提案したのだが、福永さんから「タイトルのあとに「しかし・・・」をつけましょう」という逆提案が。これはおもしろい、と思った。なるだけではなくなったあとも重要、と。そしてここからメールでのやりとりを重ねていくのだが、福永さん、さすが「企みに満ちた」作家である、こちらが何かを投げると必ずおもしろくひねって返してくれる。そうして積極的に関わってくれるのが本当にありがたく、そのたびにワタシの心は燃えるのでありました。

 たとえば当日聞きに来てくれた来場者にアンケートを記入してもらうことを提案した際、ワタシは普通の「ご意見・ご感想などご自由に記入してください」式のものをお見せしたのだが、福永さんは下の写真のようなものを提案してきてくださった。





 その一方で、そこまで『コップとコッペパンとペン』と『一一一一一』しか福永作品を読んでいなかったワタシは他の作品も読み始め、どんどんその作品世界に引かれていった。ゼミでは毎週この講演会の計画に触れ、福永さんとのやりとりや進捗状況、最近読んだ福永さん作品の話しをして、ゼミの冒頭は「今週の福永さん」で始めるのが恒例となった。そして、『星座から見た地球』を読んだとき、ワタシはこの大傑作に腹が熱くなり、今まで読んできたどんな本とも違うこの小説にある種の真理を見た気がし、そこから福永さんは自分にとってとても大切な作家になった。そして講演会でお会いできるのがますます楽しみになった。


 そしていよいよ迎えた当日。昨日のことである。プロジェクタやらビデオカメラやらいろんなものを借り忘れていたことを前日に気付き、なんとか夕方に借りられたものの、ほかにもケーブルやら忘れていたものがあって、当日の朝もバタバタである。2時間目は講義があったが、いろんなことが気になってなかなかの上の空である。昼過ぎにゼミ生が集結して会場設営へ。前の週に役割分担を決めていたのだが、すこぶる優秀な秋元ゼミのメンバーはそつなく着々と設営をこなしていってくれた。福永さんが来られてからは打ち合わせで受付の方とか見られなかったのだが、まったく問題なかった。すごい。やはり教員がぼやっとしていると学生がしっかりしてくれるのだな。

 福永さんが到着されて打ち合わせ。実際にお会いするのはまだ2回目なのだが、全然そんな気がしない。とても気さくでやさしい方だ。そしてお話がおもしろい。ここで、もう今日は大成功だなと思った。福永さんが来てくださった。それだけで。

 講演がはじまる。これまた福永さんのご提案で「普通の講演会にはしたくないので秋元さんもステージに残って漫才みたいにやりましょう」。



 ご自身の浪人時代の話、京都造形芸術大で演劇に熱中した話、卒論を仕上げられなくて大学をやめた話、大学というフレームに守られ、下駄を履かせてもらっていたのがなくなって寄る辺なくなった話、そこから作家になった話、そしてこれからの話。決して飾ることなく等身大の自分をさらけ出してユーモアを交えて語ってくれた福永さんのお話は、よくある作家の講演会では決して聞けないものだったと思う。 「人生最後の5分間」の話。もったいないので詳しくはここでは書かないが、あちこちに突き刺さる言葉があった。

 その後ご自身のデジカメの写真をランダムに見せるスライドショーのサービスがあり、質疑応答へ。フロアからどんどん手が上がる。これはこちらもびっくり。たしかに学生には事前に「どんどん質問しなさいよ」と言ってはいたが、こんなに上がるなんて。そしてそのひとつひとつに丁寧に答えていく。

 最後に自作短編「帽子」の朗読で講演会は幕を閉じた。

 いやあ、楽しかった。

 この講演に来た学生たちがどこまでピンと来たかはわからないけれど、確実に種は蒔けたと思う。あとは彼ら次第で、そのうち何人かでも、何年か後に「あ!」と気付く子が出てくれればそれでいいと思う。「あのときの話しはこういうことだったのか」と。そして出た芽が、花になったり実をつけたりしてくれればいいなあと思う。

 その後楽屋から10号館へ移動し、打ち上げへ。福永さんが去ったあとの黒板にはこんなメッセージが。

 ゼミ生15名くらいを交えての打ち上げで、福永さんといろいろ話す。作品のこと、執筆のこと。いつまででも話したかったけれど、学生たちみんなにホンモノの作家と話す機会を与えたく、順繰りに席を替わる。福永さんは学生たち一人一人に気さくに話してくれてホントいい人だ。学生たちに卒業後の進路の希望を一人ずつ話させて、言葉をかけてくれた。学生たちも本にサインをもらいご満悦。彼らにとっても、作家と話す希有な機会となっただろうし、卒業してもきっとこのことは覚えているんではなかろうか。ワタシは最後にまた福永さんの隣に陣取り、『星座から見た地球』がいかに素晴らしいか、どんなにワタシがあの本が好きかを、書いた本人に話すという機会を得て、そりゃもうこんな嬉しいことはなかった。

 院生のAさん、同僚のT先生、ゼミの皆さん、そしてなんといっても福永さん。関わってくれたすべての人に感謝したい夜でした。今夜が終わらなければよいのにと、そう思った夜でした。

 大好きな一冊にもらったサインには新たな星座が。


 こうして一緒に会を催すことができた福永さんと、ワタシ、そしてAさんやT先生、ゼミ生たちみんなの間にも線が引かれて新たな星座ができてたらいいなと思ったのであります。

 そして一夜明けて今日、1時間目から授業で忙しくしながら、もう祭りが終わってしまったような感じで、すでにさみしい。