2016年8月23日火曜日

スピッツ『醒めない』について(とりわけ「子グマ!子グマ!」のこと)

 スピッツのニューアルバム『醒めない』が発売されて、ずっと聞いている。ずっと聞いていて、相変わらず「いい」んだけど、これは今まで以上になんだか特別なアルバムな気がしている。ので、それをなんとか言語化してみたくなっている。相変わらずキャッチ―なメロディで心地よく、聞いて楽しいのではあるが、それだけじゃない。それが集約されているのが三曲目の「子グマ!子グマ!」ではないだろうか。この曲、相当変である。相当変で、一番のお気に入りである。いったいなんなんだろう?

 最初何回か聞いているときにまず印象に残った曲は「みなと」だった。これはポスト3.11だ、震災の歌だ、と思った。97年の「運命の人」は明らかに95年の阪神大震災とオウムの事件を背景としており、でもあのころは「悲しい話は消えないけれど」「もっと輝く明日!」という希望を持つことが可能であった。それが2011年の東日本大震災で変わる。壊れたものを「復興」してゼロに戻して「輝く明日」を描くことがまだ可能であった阪神の時と違って、端的に言えば原発の処理の問題がすべてを象徴するように、ぼくらはもうゼロに戻すだけでも気の遠くなるような時間がかかる世界に放り込まれた。オリンピック招致のためにこの国の首相が福島の原発は「アンダー・コントロール」だと言った時には耳を疑ったが、それが嘘だってことはみんな知っている。コントロールなんてできていない。汚染水は海に漏れ、原発の後処理に何次下請けかわからない作業労働者が多数つぎ込まれ、福島の住民たちはいまだにふるさとに帰れない。放射能は目に見えないし健康被害があらわれるには時間がかかり、表出した時にも政府や東電は因果関係を認めないだろう。先の震災が作り出したのはそういう、楽観を許さないひたすら続く「憂鬱」な現実だ。

 そんな「輝く明日」を希望できない現実を、「みなと」は極小の個人の世界として描いた。「遠くに旅立った」きみを思い、みなとで一人歌を歌う人の話として。いなくなってしまった「きみ」の記憶、痕跡、そういった「証拠」も徐々にぼやけていってしまい、かつては自分もなれると思っていた微笑む幸せそうなフツーの家族たちには、もはやなれないと知り、ただきみを思ってみなとで歌う人の物語。

 美しいメロディ、みなとに立つ「ぼく」の頭上に舞うカモメの鳴き声のように寄り添う口笛の音に心を揺さぶられる。

 それでまたなんども聞き直していると今度は一曲目の「醒めない」の「六大陸」に聞こえるのは「ロック大陸」なのだと知り、これまた歌詞を見てみるとロックの初期衝動がまだまだ「醒めない」っていう歌で、アルバム自体のコンセプトを導入する曲になっている。なんだか「マジカル・ミステリー・ツアー」にも聞こえる。

で、「みなと」が来て、三曲目。問題の曲。「子グマ!子グマ!」である。

 まずはタイトルが、仮にもロックバンドで「子グマ」である。可愛い印象しか浮かびえない。しかもエクスクラメーション・マーク付きで繰り返すという。なんだけど曲は結構ロックでスリリング、ギターかっちょいい。かつ展開が変である。AメロBメロサビ、のあとにメロディのない謎の「子グマ」コールがあるのだ。そこの詞は

子グマ!子グマ!荒野の子グマ
おいでおいでするやつ 構わず走れ
子グマ!子グマ!逃げろよ子グマ
暗闇抜けて もう少しだ

 うーん、わからん。子グマへの励ましなのはわかるけどまずは子グマがなんのメタファーなのかわからん。そしてこの部分のリズムって変形の三三七拍子、つまりは応援団的なリズムをあえてハメてるように思うのだ。

 歌詞も全体に意味がよくわからないのにフレーズだけで「おおっ!」って引っかかる天才的なセンスがある。たとえば

半分こにした 白い熱い中華まん 頬張る顔が好き

 「中華まん」を歌詞に放り込めるのは草野マサムネだけだろうし、それを「半分こ」って表現の可愛さで包み込み、かつ「頬張る顔が好き」って臆面もなく言ってしまう。

 あるいは

トロフィーなど いらないからこっそり褒めて
それだけで あと90年は生きられる

 これなんかも引っかかる。他人から与えられる客観的な評価なんていらないから、きみさえ褒めてくれれば頑張れるぜ、ってそこは相手との関係性が恋人であれ 親子であれなんであれ理解できる感情ではあるが、なんだけどなんで「90年」なのかな?90年あればたいていの人間は死ぬので、今生まれたての命であって も見届けることができるってことかな?じゃあ、「子グマ」って子供のこと?「バイバイ僕の分身」ってあるし。

幸せになってな ただ幸せになってな
あの日の涙が ネタになるくらいに
間違ったっていいのにほら こだわりが過ぎて
君がコケないように 僕は祈るのだ

ってのも親目線だってのに当てはまる。

 なんだけど、これ、子供を見守る親の話ってしちゃうとそんなにおもしろくないのでなんか他の読みようがある気がしている。ひとつ思うのは、自分も聞いてい てなんだか「わかる」気がするのは、子に限らず小さな存在を見守って励ましたいって気持ちが(たとえば学生に対してとか)自分の中にもあるからで、そういう「すべての親的な心情」を歌った歌か、というのが暫定的解答。

 その次が「コメット」で、これは胸キュンなメロディな良曲なばかりか、またしても歌詞でやられる。

黄色い金魚のままでいられたけど
恋するついでに人になった

スピッツの詞によくある(気がしてる)「転生もの」である。思い出したのは「エトランゼ」。

目を閉じてすぐ 浮かび上がる人
ウミガメの頃 すれちがっただけの

転生なのか進化なのかは不明だが、二人は今世の前にも、あるいは太古の昔にも、ウミガメとして一瞬会っていたんだよ。この歌詞の輝きはいまだに薄れない。

「コメット」の方は、「生餌を探して」いたのは魚だからか。金魚の品種の名前でもあるし、流れ星だから、願いをかけて人になったのかな、でも「ついでに」なんて言っちゃうのは強がってるのかな、なんて思う。

「切れそうなヒレで泳いでいく」ってとこでまたうーんと唸る。「また会うための生き物」ってことは、別れて行ってもまた転生して別の生き物になって会うのかな。

 江國香さんの名作短編「デューク」を思い出す。犬のデュークが死んじゃって「びょおびょお」泣いていた女の子の話。犬の視点だったらこんな感じかなアとか。

でもこれまた謎、かつ謎なのになんか「いいなあ」って思う部分があって、それが

ゴムボールが愛しい

である。犬ではないしゴムボール、金魚が人になったきみにはそれほど愛しくはなかろう、と思うのだが。でもなんか子供時代の日も暮れかけた屋外にたたずむゴムボールを思わせて、わからないのにノスタルジーを感じる。

 アルバムはまだまだ続くが、とりあえずここまで。 まだまだ謎だらけだしここまでもまるで解決しない。そのどこまでもいつまでも読めるところがスピッツのよさだと思う。

 

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