2011年2月10日木曜日

ポール・オースター Sunset Park

 Invisibleを読了したら勢いづいて最新作のSunset Parkも読まずにはいられなくなった。ここ10年くらいオースターの小説にはハズレがない。しかも発表のペースもあがっている。まさに円熟期。

 28歳の青年マイルズは大学をドロップアウトし、破産した人が追い出された後の住宅を片づけるtrashing outという仕事をやっている。将来のあてもなく各地でその場限りの仕事を転々とし、ここフロリダに流れ着いた。彼はその住居を立ち去った人々が残した生活のあとを写真に収める。
 マイルズはピラーという女性と恋に落ちるが、問題は彼女が18歳に達していないということ。成人が18歳に達していない者と性的な関係を結ぶのは違法である。マイルズはピラーと同居を始めるが、ピラーの姉に、警察にタレこむと脅され、友人が住む故郷ブルックリンはサンセットパークへ引っ越す。ここもまた見捨てられた家々が立ち並ぶ場所で、友人ビングはそのうちのひとつに不法に住み着いている。大学院生で文学の博士論文を書いているアリス、不動産会社で働く傍ら絵を書くエレンとの4人の共同生活が始まる。
 4人の共同生活で思い出したのは吉田修一の『パレード』で、本作も各章で焦点を当てられる人物は変わっていくのだが、『パレード』みたいに1人称の語りではないし、「語り手が語らないけどみんなが気付いていること」をめぐるお話でもない。
 生まれて3カ月で家を出て行った母親、継母ウィラとその息子でマイルズの義理の兄ボビー、彼が死亡した秘密が語られ、マイルズが大学を辞めて7年半もの長きにわたって各地を転々としたきっかけが明かされる。

 7年半もの失踪ののちNYに戻ってきたマイルズを実の母親で女優のメアリー・リーが迎える場面がいい。息子を歓迎したいがなんせ7年の間にどう変わったかわからない。食べ物の好みも変わってしまったかもしれない。彼女はふたつのレストランにケータリングを注文してステーキとベジタリアン料理を用意する。赤ワインとスコッチが好きだった息子だが、今は違うかもしれない。彼女はジン、ウォッカ、テキーラなどあらゆる酒を用意する。ところがやってきた息子はもうお酒は飲まないのだと言う。しかし彼もその年月に向かう緊張を解くために、この日ばかりはワインを口にするのだ。

 複数の人物が交錯する物語をつなぐ線として登場する映画『我等の人生の最良の年』、父と息子をつなぐ細い線である野球選手のエピソード、PEN事務局で働き始めたアリスのエピソードに出てくる、昨年ノーベル平和賞を受賞した中国の活動家Liu Xiaobo(オースターは彼の詩をPENで朗読している)。こうしたエピソードでつながりながら、サンセットパークの家に住み着いた4人とマイルズを取り巻く家族の物語が展開していく。

 アリスは言う。『我等の人生の最良の年』の時代の男たちはしゃべらない。一方で今の男たちはしゃべりすぎる。そして、映画で腕を失った元軍人がそうであるように、人は傷を負ってはじめて大人になるのだと。
 これはマイルズが小学生の時に書いた『アラバマ物語』のレポートが書いていることでもある。人は傷を負うまで大人にはなれない。本の最後にのっているが、どうやらこのレポートはオースターの娘の実際のレポートがネタらしく、そのあたりは微笑ましい。

 映画の元軍人は腕を失くし、最後にマイルズは警官を殴って拳を腫らす。そして最後のページで描かれるのは、これまた失われてしまった両腕であるかのようなツインタワーである。『スモーク』で腕を失くしたのは父親であった。今は腕を失くしているのは息子である。

 21世紀、不況後のアメリカの現実を舞台に、未来を見つけられない若者たちが抱える閉塞感が描かれる。そこに向けられる眼差しは、やさしい。

2011年2月8日火曜日

集中講義

1月17日から20日、福岡女子大大学院で集中講義、無事終了。メルヴィルの"Bartleby"について。

2011年2月2日水曜日

ポール・オースター Invisible

 ずっと買ったまま読まずにいたのだが、はやくも次のSunset Parkが出てしまったので、ようやくInvisibleを読む。

 Brooklyn Folliesの書評で"postmodern pageturner"ってのがあって、うまいこと言うな、と思っていた。オースターの良さはまさにその通りである程度のポストモダンな感じ、実験性はありながらも、通常「ポストモダン小説」と言って思い起こされる小説たちより、はるかに読みやすい、いや読みやすいというより読んで楽しい、読まずにいられない、くらいに読者を引っ張るその物語としての面白さにあるのだと思う。本作もいったん読み始めたらぐいぐい引き込まれた。コロンビア大学のブッキッシュな学生Adam Walkerが客員教授のBornとその恋人Margotと出会い、文芸誌出版の話を持ちかけられる。60年代のコロンビア大、詩を書く主人公、『ムーン・パレス』みたいな自伝的小説なのかな、と思っていると主人公の身に突然の事件が起こる。
 ここでまずはひとひねり。次の章で、ここまでの物語がAdamから送られてきた原稿だと明かされる。そして、それを読んだ外側の語り手としての作家Jimが登場する。ここで我々が没入していた物語の信ぴょう性が一段階低められる。ん?これはホントの話なの?それとも創作?
 コロンビアの同期生であったJimは40年も会っていなかった友人から届いた原稿を読み、彼と会う約束をする。そして続きが書きすすめられないというAdamにちょっとしたアドバイスを送る。視点を変えて自分を客観的に見てはどうか?と。自分は一人称で書いて行き詰った時、そのinvisibleになってしまった自分を、三人称で書くことによって解決できたんだ。
 ここで次のひとひねり。新たに届いた原稿として作品内で展開されるAdamの手記はなんと「二人称」で書かれているのだ。なつかしいJay McInerneyのBright Lights, Big Cityと同じ、自分への語りかけである。このあたりでもう「うーん、やられたなあ」と感心することしきりである。
 原稿は残されたが書き手は死んでしまう。死んで原稿を誰かに託すのはオースターおなじみの仕掛けで、『鍵のかかった部屋』も『ミスター・ヴァーティゴ』もそうだった。原稿を再現しているのは託されたJimであり、彼は原稿に手を加えている。Adamの手記には姉との関係に関するショッキングな記述があるが、姉本人はそれは事実と違うと言う。どちらが本当なのかは分からない。Jimが書き加えていないとも言い切れない。そもそもInvisibleという作品自体がフィクションなはずなのに、読者はどこまでが事実で誰が嘘をついているのかわからず、それが気になってしょうがない。Bornが起こした事件の真相もわからない。彼自身がフィクションのアイディアとして語る2重スパイの話、その結果仲間を殺さなくてはならなくなったという話を、Cecileは事実ととらえる。自分の父を交通事故を装って植物人間にしたのはこの男だ、と。しかし真相はわからない。最後までわからない。
 Adamの手記を出版したいがそのままでは実在する人物(あるいは自分?)を傷つけてしまうと考えたGwynは、これを書きなおして人名や場所を変えて出版すればいいという。しかも著者はJimとして。Bornも自分の秘密を本にしようとCecileに持ちかけ、それをCecileの名で出版することを提案する。
 オースターは作者とはなんなのかということに強い関心を持っている作家である。ぼくらは作家とは一人の統一した人格を持った主体であると信じて疑わない。批評理論が「作者の意図」をいくら殺しても、それでも「作者」は厳然と存在していて、一群のテクストはその生みの親である一人の人間にその源をもつと信じて疑わない。でも本当にそうなのか?本の表紙にのっている名前が一緒でも、書いた人はホントは違うかもしれない。Adamの手記はJimの名前で出版されるかもしれないし、だとすれば一番外側の箱であるPaul Auster著Invisibleも、ホントはぼくらの知っているオースターではない人が書いたのかもしれないではないか。

 そういうことを考えさせてくれるオースターの作品はやはりおもしろい、
 
 と思っている自分もやはり「作者」の存在を信じ切ってそれにとらわれてしまっているのだが。
 

2011年2月1日火曜日

『ソーシャルネットワーク』

 フェイスブックを開発したハーバード大学生たちのお話。ものすごい知力をもつがイケてないオタクたちが、大学というある意味外の世界以上に階級を作り出す社会の頂点に位置する持てる者(モテる者)たちを出し抜き、サイトを広め、事業を拡大し、そのなかで別れていく。
 主演のマーク役の、人の感情を全く考えない不遜ぶりがうまかった。
 彼がフェイスブックを作ったきっかけはエリカというガールフレンドに振られ、彼女を見返してやろうとしたことがきっかけだが、最後の場面で彼は自分が作ったフェイスブックを通して彼女にコンタクトを取ろうとする。ジャスティン・ティンバーレイク演じるナップスター創始者のショーンは、自分がナップスターを作ったのも女性への復讐(?)だと言い、その後彼女に連絡を取ったかと問うマークにNOと答える。最後の場面はこのショーンの態度と対照をなすが、でも、最後の場面のマークが、最初のマークからなにか変っているのかというとそういう感じはまったくしないのである。
 全編を通じて感じたのは、ものすごい影響力をもつものを開発し、巨万の富を得たにもかかわらず、彼には自分が欲しいものが最初から最後までわかっていないのではないかということ。そういう意味で彼には「成熟」がなく、その成熟のなさはショーンも共有するもので、それがジャスティンのとっつあん坊や的ルックスにうまく凝縮されている気がした。