2016年12月27日火曜日

木村友佑 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

  「社会派」というひとことで片づけては失礼だろうが、今の日本を地べたの視点からとらえる作家である。『イサの氾濫』では震災のあともわだかまる東北の人の心を描いた。今作は貧困と格差の問題である。

 ゲーテッド・コミュニティのタワーマンションに住む富裕層と、彼らから「野良ビト」と害獣扱いされる川べりの浮浪者たち。格差が可視化された社会は未来ではなく、もうすでにある現実である。労働者が切られて職を失い浮浪者が増える。しかし「スポーツ祭典」の狂騒を背景に人々は「好景気」の虚像に踊り、現実を見ようとしない。不景気を口にするものは罰せられる。持つ者と持たざる者の2極化が進み、持たざるホームレスたちの間でも強者が弱者を食い物にする。


    3人称で語られてきたホームレスたちの物語が、終盤で視点が変わる。マイノリティである外国籍のイスラム教徒(でも日本で育った日本人である)をさらなる弱者としていじめるホームレスたちを前に、このホームレス社会のリーダーとなった木下は、「あんたらに食わせるメシはない」と言い、追放を宣言する。そこで視点が入れ替わる。

 「そう木下は言ったのだった。ぼくの経験を投影した登場人物である木下は――つまり、ぼくは。あまりに腹が立ったから思わずでた言葉だったけれど、その後味の悪さはいつまでも胸に、舌に残った」

 この視点の変化には賛否両論あるだろうと思う。円満な物語世界をなぜ中断するのか、と訝る向きもあるだろう。

 しかし、私は、こここそこの作品の肝だと思っている。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、差別を批判し社会の歪みを糾す一見「正義」に思える自分の中にも、同じような差別意識、権力をふるいたいという欲望があることに気が付く。

 世の中間違っている。それを批判することはたやすい。円満な破たんのない物語世界を描くことで、社会批判をし、悦に入ることだってできる。しかしそれはともすれば、自分を特権的な正義の位置において、社会を「向こう側」へ切り離してしまう行為でもある。でも、その社会の歪みを自分の問題として引き受け、差別する人と同じ心性が自分の中にもあり、ややもすると自分もそうなるかもしれないという内省がなくては問題が解決することはないだろう。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、おいおい、自分にもあるじゃないか、そういうとこが、と気づく。そして、先ほどの引用部分は、あたかも、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』というテクストじたいを書く作者木村友佑自身の独白のようにも読めるではないか。もちろん読み進めれば、それを語っているのは木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)なのであり、作者が小説の約束を破って中に登場したわけではない。しかし、引用部分を読む読者にはこの「ぼく」が誰なのか、にわかにはわからない。一瞬作者自身ではないかと思う。

 そしてそれこそが私たち読者の意識を揺らがせる。木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)同様に、そしておそらくは作者木村同様に、私たち読者も、自分を見つめ直さなければならない。ホームレスかわいそうだ、それをいじめるこいつらひでえな、と「正義」の側に立つだけではダメなのだ。それが自分とさほど違わない人々なのだという共感に至らなくては意味がないのだ。そして、この語りの変化は見事にそれを実現していると思う。

 世の中が不寛容に傾いている。遠くの誰かを自分事のように考えることが難しくなっている。自分とはかかわりのない他者だと思うからこそ人は無関心でいられる。一見それは弱者に目を向けない強者の論理のようにも思えるけれど、強者ばかりではない。弱者だってそうなのだ。「こいつらひでえな」で済ませないために、「自分もひでえのかも」「自分の中にもひでえやつになる可能性はあるじゃないか」に至るために、この小説は読まれるべきだと思う。

2016年12月26日月曜日

カワイオカムラ展覧会『ムード・ホール』at @KCUA



 魚を捕ってもヘコヒョン・・・

ヘコヒョンが頭の中にとりついているのでヘコヒョンを見ないように努めているのだが、見ないように見ないようにとすればするほど視界の隅のヘコヒョンが気になる。「その行為自体がヘコヒョンであろうが!」と頭の中のヘコヒョンに言われた気がし、「ヘコヒョンとは私自身のことか、なあんだ、よかったね」とやりすごしてみたが、慰めにもならない。

数週間前にシングルレコードジャケット大の謎冊子が送られてきて、なんだろう?と中を見てみるとカワイオカムラというアーティストの展覧会のフライヤー、なかのライナーノーツのような文章の署名は「福永"スーパースター”信」とある。作家の福永信さんである。へんてこなことばかりしている人だが、今度は"スーパースター"になったようで「スーパースターか、いいなあ」とため息。
なつかしのシングルレコードのジャケットサイズ

いよいよ'スーパースター’にまでのぼりつめたようだ  
 どうも展覧会会期中に映像ライブがある模様。なんだか面白そうなので京都まで行ってみることに。スーパースターも用があるというので待ち合わせることになる。

 日曜でクリスマスである。どことなく人々が浮かれている気がする。お昼に一人でステーキを食べに行ったら昼からワインでいい感じになった兄ちゃんが知らないおばあさんの勘定を「払っといたから」と大盤振る舞い。「酔っぱらって気が大きくなっている」とも、人に親切にする「クリスマス精神」とも取れよう。

 JRに乗っていざ京都へと向かうが、どうも時間を読み間違えたっぽい。新大阪で、これは約束の時間に間に合わないと判断し、新幹線を使うという手に。機転を利かしたつもりだったが、新幹線のきっぷ売り場が長蛇の列。なんだよ。シンデレラ・エキスプレスか!

 30分遅れて会場に到着。福永さんは私の遅刻にも動じない落ち着き。スーパースターらしい。一緒に展示を見る。

 事前にフライヤーを見ていたので「この人たち絶対プロレス好きですよね」と聞いてみる。だって、ロード・ブレアーズって名前があちこちに出てくるもの。PWF会長で全日のタイトルマッチではいつも名前を耳にしていたロード・ブレアーズ。顔は覚えていない。『四角いジャンル』は『四角いジャングル』からだろうし。やはりプロレス好きだそうで期待が高まる。

 「AMAZON」「スーパースター」 、そして動画作品の「コロンボス」。刑事コロンボみたいな人がいてロード・ブレアーズが射殺される場面がスローモーションで展開される。その隣に分割された画面ではコロンボが遺体を空中浮遊させたかと思ったら降ろしたり。でもコロンボ1人じゃなくってもう一人いる。よく見るとこの対になった二つの世界は対角になっていて、さらにもう二つ、計四つの世界があるようにも見える。最初に倒れていた遺体は女性だったけどあれはなんだったんだろ?理解しようとするけど結局わからない。今もわからない。

この構造は新作の「ムード・ホール」のダンスしている部屋の絵にも共通していて、左側の絵と右側の絵の両方で二人の男がダンスに興じており、同じ部屋を別の面から見ているのか?(そのうえさらに別の角度から見ていると思わしき絵画が右の部屋にかかっている)と思うのだけれど、だとすると片方にだけいる人だとかプールみたいに見える水の部分とかの違いが説明がつかない。不思議。不可解。

次の「ヘコヒョン・ドリル」。ここから観客はヘコヒョンに取りつかれることになる。ここで流れるナレーションのテクストがいいのだ。正確には再現できないのだけれど、「虚」の「実」と「実」の「虚」、その二項対立がお互いをウロボロスのように食い合った状態?なのかなあ?fictionの地底が盛り上がってできた、なのかなあ?謎がどんどん増殖していく。ヘコヒョン自体がわからないし、「ヘコヒョンにならなければいけない」とか「魚を捕ってもヘコヒョン」とかどんどんぐるぐるになっていく。ヘコヒョンだけでなくその周辺でも周到に、意味を確定させないテクストが張り巡らされている。リングを見守って大声を上げるのは「としちゃん」。名前になんらかの意味があるのか?なんで「としちゃん」?とか思っていると、「組み合う3人の男を見ながら」って、リングの上は普通4人か2人であって、なんで3人?「時間ないぞー!なんの時間だっけ?リアル元年か」。試合のタイムアップを間近にして叫ぶ「としちゃん」の声援の意味がまたしても横滑りされていく。

ナンセンス!

「ヘコヒョン」は盲点みたいなもので、「ある」けど見えなくって、そこにはなんでもあてはめることができる。「文学」とか「アート」とか「プロレス」とか。でもどれとも確定することはできない。だって「ヘコヒョン」だから。あーおもしれー。

「虚」の「実」と「実」の「虚」はまさにプロレスがそうで、見えている現象は「虚」なのか「実」なのかわからない。そのたたかいはリアルに見えても(リアルファイトとは違うという意味で)フェイクなのだ、ともいえるし 、フェイクに見えてもリアル以上に失敗が許されないリアルな部分もある。骨が折れたってshow must go onなのだから。そしてそれを見守る観客たちの中にも「虚」と「実」がないまぜになる。どこまでいってもどっちかには確定できない。観客はそのぐるぐるをまるごと受け止めるしかない。

夜には映像ライブがあってご本人たちも登場してライブで作品を見ることができた。「コロンボス」をまた見たけど、やはりわからない。「わからないでいいのだ」とも言えるけど、考え続けなきゃおもしろくない。意味は鑑賞してる方が作るのだから。

新作の「ムード・ホール」の箱庭的な入れ子の世界はこれからもっと広がっていくようなので楽しみ。そして私はやっぱり「ヘコヒョン」である。

あーおもしれー。

魚を捕ってもヘコヒョン・・・

スーパースターたちと
1月にもまたライブがあるという。また行こう。

詳しくはこちら。






2016年12月24日土曜日

第28回加古川マラソン

 忙しいのと寒いのとで練習不足なのではあるが、やってきた今年の最終レース、加古川マラソン。初参加。フラットなので記録が出やすいと聞いたことがある。とはいえ今のワタシは記録を狙えるような走力ではないのであまり気合も入らない。
 朝6時半起床、7時20分出発。バスで三宮行って新快速。加古川は近い。しかし駅でトイレを待って外に出てみるとバス待ちの人が長蛇の列。この時点で9時くらい。スタート集合が9時25分でスタートが9時40分。これ間に合うの?初の遅刻不出走か?と焦る。会場着いたらすぐ着替えて並べるよう、並びながらシューズにチップを付けて、シャツのゼッケンもつける。

 バス乗って10分くらいでついてすぐさま着替えて荷物預けてスタート位置へ。なんとか間に合う。ほっ。

 天気は曇り。雨ではないし暑くもないのでむしろちょうどいい。

 今回は練習不足の自覚があるので、キロ6分のイーブンペースを目指す。サブ4なんて言わない。

 それが、スタートしたらなかなかに好調。しんどくない。キロ5分50とか40くらい。5分30まで上がったらジチョ―ジチョ―とおさえる感じで進む。10キロオッケー。酒饅頭を食べる。水分がないと大変なのでエイドで立ち止まって30秒くらいかけてストレッチもしながらのどかに食べる。まんじゅうはうまいのだが、しかしあとから思ったのは、走る前に十分食べてるし、10キロで饅頭食べんでもいいわなあ、ってこと。

 20キロも快調。これは前回の神戸よりも軽快な走りだなあ。

 30キロもオッケー。この時点で2時間50分くらい。ということは・・・ここからの12キロをペースアップしてキロ5分で行ければ、4時間?サブフォー?とちょっと甘い夢を見てみる。

 しかし、やはり、このくらいから足が重くなってくる。32キロでトイレへ。朝出なかったのが今頃になってやってきた。

 そこからだんだん落ちて行って34キロくらいで川の上の橋を渡ると、風が冷たいのなんのってもう。そして橋渡って35以降、ずーっと向かい風。しかも冷たい。腰に巻いていたウィンドブレーカーを着こむ。さみー。

 踏んでも踏んでも進まない。歩く。

 ここからがしんどかった。前回の神戸より早く歩いてしまったことになる。んああ。

 結果4時間22分。

画像に含まれている可能性があるもの:2人、立ってる(複数の人)、空、屋外
伝統の「チーム文学部Tシャツ」を誇示するK


 うーん、もう4時間切れる気がしない。減量とストレッチ、あとビルドアップ走もして2月のレースに臨みたい。

 レース後は同僚の新居でお風呂とピザをいただく。素敵な街に素敵なお家であった。

2016年12月6日火曜日

ハシケン at ムジカジャポニカ

1人でぶらりとライブに行くのが最近の楽しみ。お酒飲んでいい音楽聴いて、ってのが一番。今日は大阪でハシケンat ムジカジャポニカ。


初めてハシケンを聞いたのはまだ院生で東京で一人暮らしをしていた95年だと思うのでもう20年にもなる。当時鈴木慶一とYouが司会のゑびす温泉って勝ち抜きバンド番組があって、それに登場したハシケンを聞いて頭がブッとんだ。「グランドライフ」って曲で、なんちゅうか人類の歴史と世界全体が見えたような感じで、スゴイなああって思って、デビューCD買って修論書きながらずっと聞いてた。

大スターにはなんなかったけど、その後もずっとアルバムが出れば買い、20年聴いてきた。そして20年経って初のライブ。

よかった。

この人の歌は目を閉じて聞くといい景色が見えるときがあるんだ。今日はいい景色、いっぱい見れた。「限りなくあの空に近い」「凛」「感謝」「テーゲー」よかった。

終わってからちょっとだけ喋った。「ゑびす温泉から」って話をしたら「長いなあ」と照れてはった。いい歌をありがとうございますと感謝を伝えて帰りました。

金曜に同じ会場でプチ鹿島の漫談ライブがあるという。行きたいなあ。どうしよっかなあ。

2016年11月25日金曜日

46

まだなってないですが、昨日のゼミでゼミ生が祝ってくれました。もうほんとにね、うちのゼミ生は毎年チョーいい子で、お給料もらってこんなことまでしてもらって、教員冥利に尽きます。


おいしいケーキをみんなで食べまして、バースデーメガネをもらったので、授業中ずっとかけたままやりました。ダブルメガネです。



ホワイトボードのメッセージも嬉しかったし、プレゼントがまた気が利いているんです。






ゼミ公認作家との争いの模様をプリントしたマグカップ、そしてA氏をモデルにしたYonda?ピンバッジ。どっちもすごく嬉しい。Yonda?は福永さんの「謝辞」からの流れでもありますが、文学系のゼミならではのチョイスだし、同時にA氏の「呼んだ?」でもあるという秀逸なもの。みんなで着けました。


今年のゼミ生は特に元気があっていい感じなのですが、この子らに自分ができることはなんなのか、よく考えてがんばんなくっちゃなと思います。



感謝。そして感謝。




2016年11月20日日曜日

第6回神戸マラソン

 第1回以来5年ぶりの当選。気合が入る(べき)ところではありますが、最近忙しいのでちょっと心配しつつ、それでも今月3日には一回フル走っているし、1週間前にはハーフ走っているし、いけんるんでないの?といつものように楽観。

 2日ほど前からカーボローディングのつもりでばくばく食べて体重は1キロ増。6時20分起床。おにぎり3個、もち、ヨーグルト、野菜ジュース。

 今回の給食は、前回のフルの時、10キロで酒饅頭を食べたら腹持ちが良かったので、10キロ酒饅頭。あとはジェルとブラックサンダー、そしてアミノ酸の粉。

 




 朝おきてからずっと眠くてバスで寝て、スタートエリアに入ってからがまた1時間くらいあったのでまた寝そうになる。なんというかリラックスというかぼけぼけというか。スタート時点で気温19.5度。夏か!

 Dブロック、第2ウェーブでの出発なのでスタートは15分遅れの9:15。今回はのレースプランは結構迷っていて、先日のフルがキロ6分のイーブンで行けたので、それ以上にしたい、しかしサブ4を狙ってつぶれるのはいや、ってことでペース設定がわからん。。どーしよっかなー、って思っているうちにスタート!

 スタートから3キロくらいまでGPSがアホになってスピードがわからなくなる。人が多いとなるのかな?なので適当に走ってそのペースで行こうと決定。だいたいキロ5:40くらいに落ち着く。いいじゃない。サブ4ペースやん。なんだかずっと体が重いのが気になるが、レース最初は重いくらいの方がいい!というマラソン本の言葉を思い出し「いけるかも?」とニヤリ。

 10キロくらいまではサクサクで、あ、もう1キロ進んだの?みたいに早く感じる。だが、体は相変わらず思い。うーん、これは重い。
 
 友人おかっちが舞子のあたりに見に来るかも、と言っていたので、せめてそこまではかっこよく行きたいものだ、と頑張る。でも折り返しでもいなくて、ありー?とがっかりしていると20キロくらいでいました。奥さんと娘さんも。こういうの、嬉しいね。

 そういえば今回は伝統の「甲南大学チーム文学部」Tシャツに、ゼッケンは「アッキー」のニックネーム入りにしたのだが、けっこう「アッキー、がんばって!」って声をかけてもらえて、これはまた楽しい。5年前はつぶれて歩いているときに、追い越すランナーに「甲南ガンバ!」と何度も励ましてもらったが、今回は一回もなかったなあ。



 21キロを超えてようやく半分。あ、しんどい。太ももとケツが痛い。歩きたい。えー!さすがに早いんでないの?

 とてもしんどいのだが、さすがに30キロまでは歩いたらダメでしょ、と思って踏み続ける。こっからが長かった。なかなか距離が減らない。足は痺れているし、スピードは出ないし、出そうという気にもならない。それでもコツコツ踏み続け、ようやく30キロ。

 そうなると、うーん、32Kまで行って、残り10キロってとこまでは歩きたくないな、となり、次には、うーん、35までなんとか、と体の要求を頭で拒否し続ける。そのうちハーバーランドに出て、ここは人が多いので歩きにくいので走り続け、上りのバイパスが出てきたが、これを登りきるまではなんとか、そしてこのバイパスがかなり長かったのだが、次はバイパス出るまではなんとか、と粘って、結局38.5Kまで歩かなかった。

 そのあとは歩いたり走ったりで、なんとかゴールし。

 手元で4:23。

 2週前に練習で出たユリカモメマラソンよりも遅い。サブ4どころではない。しかし、21キロからもう歩きたかったのに、そのあとよくこんだけ粘ったと自分をほめてあげたい。

 たぶん、練習不足。脚がまだできていない。せめて週に二回は走らないとなあ。距離を踏む練習と、インターバルランでスピード練習。

 12月末の加古川ではなんとか4時間切っときたい。がんばらな。忙しいんだけどね。

 そういえば走っている間食欲もなく、酒饅頭は食べないまま。

 銭湯に行こうと思ったが帰り歩くのがしんどいのでパス。うなぎを食べてひょうたんでぎょうざ買って帰る。

2016年11月14日月曜日

ジョナサン・サフラン・フォア Here I am

 9月に出版されたフォア11年ぶりの小説。映画も小説も大評判になった、9/11で父親を亡くした少年を描いた2作目の『ものすごくうるさくてありえないほど近い』の印象が強いためか気づいていない人も多いような気がしているのだが、フォアは実はユダヤ人としてのルーツへの思いのとても強い作家である。デビュー作『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』はウクライナへルーツ探しをするユダヤ系アメリカ人の話だったし、食肉産業への取材に基づくノン・フィクション『イーティング・アニマル』でも、ホロコーストサバイバーゆえに食べ物を粗末にするのを許さない祖母に触れる箇所があった。Here I amはそんなフォアのユダヤ性が横溢した作品なのだ、と、とりあえずは言ってみる。





 ワシントンDCに住むユダヤ系アメリカ人ジェイコブはテレビドラマの作家である。建築士の妻ジュリアと13歳のサムを筆頭に、マックス、ベンジーの3人の息子がいる。父アーヴは政治的なブログを書き、さらにその父アイザックは老人ホームに入所している。13歳を迎えるサムのバル・ミツヴァ―(ユダヤ教の成人式)はアイザックのたっての希望なのだが、サムは乗り気ではない。しかし、イスラエルからの親戚も呼んで行う一大行事ゆえ、アイザックとジュリアは大張り切りである。社会的にも成功し幸せそうな中産階級の家庭なのだが、そこに小さなひずみが生まれていく。

 まずはサムがユダヤ学校の机に書いた差別的な言葉。サムとジュリアはラビに呼び出され、サムは自分がやったと認めず謝罪を拒むため、バル・ミツヴァ―は棚上げになる。
 ジェイコブが隠し持っていた二代目のスマホがジュリアに見つかり、そこには性的に「不適切」ないくつものtextがあった。長い結婚生活の末お互いに閉じ込めてきた違和感のふたが開き始める。
 飼っている犬も年老いて脱糞するようになり、次男マックスは安楽死を選ぶべきだと主張する。
 サムはOther Lifeというネット上の世界に作った自分のアヴァター、サマンサに閉じこもるが、こっそりother lifeにログインしたジェイコブはあろうことかサマンサを殺してしまう。
 
 そんな折にサムのバル・ミツヴァ―に出席するためにイスラエルから、ジェイコブのまたいとこののタミールが息子を連れてやってくる。そしてその滞在中に、なんと、イスラエルでマグニチュード7.6の大地震が起こるのだ。破壊と混乱の中、かの国ならではの、常に緊張関係にある周辺国とのバランスが崩れ始める。国内では過激派がイスラム教徒の聖地Dome of Rockに火をつけ、世界中でイスラエルへの非難が高まり、宣戦が布告される。

 そしてイスラエルの首相は、世界各地のユダヤ人にhomeを守るためにイスラエルへ駆けつけよとメッセージを送るのだ。その作戦はReverse Diasporaとも呼ばれる。ジェイコブはこの作戦に参加しようとする。

 平穏に見えながら実は危ういバランスの上に成り立っていたジェイコブの家庭の崩れるさまが、大地震に見舞われてバランスを大きく狂わす中東情勢、そしてイスラエルの命運に重ねあわされる。

 イスラエルを大地震が襲うという発想には度肝を抜かれたし、非常にユダヤ的な題材に満ちた作品である。

 ジェイコブの祖父とタミールの祖父は7人兄弟のうち、唯一ホロコーストで生き残った二人である。200日間穴の中に隠れて生き残ったのだ。それは、穴の中に600日間隠れて生き延びたというエトガル・ケレットの父親と同じ体験である。そして本作で生き残った二人の兄弟は、 一人はイスラエルへ、一人はアメリカへ渡る。そこで生まれたそれぞれの孫がタミールとジェイコブである。

 この部分を読んで、これはエトガル・ケレットとサフラン・フォアであってもおかしくない関係だと思った。二人はともにホロコーストサバイバーの子孫であり、国を越えてともにお互いへの共感を表明している。

 Here I amという創世記でのアブラハムの言葉に由来する、矛盾しあう外部からの要求に対しても全身で存在することの意味、動物園に忍び込んでライオン舎に足を降ろして感じた生きていることの実感。考えることがいっぱいある。

 もっかい読もう。

2016年11月8日火曜日

第28回ユリカモメマラソン

今シーズンの初レース。先日神戸マラソン試走会に参加してフルの距離は走っているので、まあ完走はできるだろうと思うも、試走会はコンビニ休憩や信号でけっこう休めたので、レースとはまた違うわなあ、ということでキロ6分でイーブンペースで最後まで、というプラン。最初のレースだしこのくらいでよかろう。

朝、おにぎり3個、オレンジジュース。10キロで食べた酒饅頭が効いたのか最後まで(そして夜になっても)お腹すかなかった。次のフルも酒饅頭で行こう。

キロ6分てゆっくりすぎるかなと思っていたけど、30キロすぎたらそれもちょっとしんどくなったくらいなので、今はそれくらいの走力しかないってことね。

4時間18分でゴール。まあまあプラン通り。

レース前は朝からあんまり水分取らない方が向いてるのかも。トイレ行かんで済んだし。

今津まで行ってえびすの湯ってとこで風呂入り、三宮で本屋に行き、劉家荘で焼鶏を買って帰る。

次は赤穂シティマラソン(ハーフだし牡蠣が楽しみ!)を挟んでの神戸マラソン。サブ4を狙うべきか・・・。迷う。

2016年10月30日日曜日

『港のひと』



 『港のひと』に「イスラエル製ターディスのアンビな旅」というケレットさんについてエッセイを書かせてもらいました。
 
 とても素敵な冊子です。友人はとおかくんの研究室が出版社「港の人」と組んで手製本で作ったもので、手にとって、触って、読んで、常に嬉しい本です。

表紙の色も違うんだぜ。

 近著『ロケットの正午を待っている』を同社から活版印刷で出したはとちゃんは、「本」の中身だけでなくてモノとしての「本」について、メディアとしての本について真剣に考えて、重版できない活版印刷にたどり着いたのだと思います。普段本が何部売れた、重版になった、やれ増刷だ、みたいな価値観を当たり前に思っていたワタシにとっては、重版できない限られた部数の本を出すという考えは目からウロコでした。でも、それは本当に読みたい人が必死に探し出して入手する本になるかもしれない、手に入れた人が、渡された人が大事にする本になるかもしれない(本人はそんなこと言いませんが)、と思うとその希少性はとても意味があるのではないかと思えてきました。手紙ってそうだったはずで、この本は重版できないゆえに、手紙に近い極めて親密な本になったと思います。ワタシもオフィスでいろんな人に見せているし。テクストがデジタル化されていくらでも無限に複製可能になった今だからこそ余計にです。

 当冊子もそんな親密な感じが詰まっています。参加させてもらってよかったなあと思っています。

 好きな作家の木村友祐さんや後輩の加藤さんとご一緒できたのも嬉しいです。

2016年10月25日火曜日

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

 フィッツジェラルドやヘミングウェイを育てたスクリブナーズ社の名編集者マックスウェル・パーキンズと夭折した作家トマス・ウルフの関係を描く。ウルフが書きすぎる作家で冗長だったというのは有名な話で、それを刈り込んで読めるようにしたのはパーキンズだというのもアメリカ文学史ではよく出てくる話。最近ではウルフはあんまり読まれない。

 印象的だった点をいくつか。

 二作目の謝辞をパーキンズに捧げようとするウルフにパーキンズは「やめとけ」と言い、「あなたがぼくの原稿を本にしてくれた」というウルフに「ぶちこわしてしまっているのじゃないかと不安になるよ」と心情を吐露する場面がある。編集者は作家と二人三脚だが、作家に対する注文に説得力を持たすためには迷ってはいけない。自信をもってダメ出ししなくては、作家だって譲れないだろう。しかしその判断は重い。自信を持てないことだってあるだろう。その孤独な判断の重さが出ている場面だった。

 パリから帰ったウルフとパーキンズが再会する。30年代のアメリカは失業者であふれかえっている。「ぼくが書くことに意味なんかあるのかな?ぼくが書くものを必要としているのは彼らなのに、彼らは読むことができない」というウルフのことば。そのあとに二人で忍び込んだビルの屋上でパーキンズはこう言う。「太古の時代に人間たちは火を囲んで座っていた。オオカミに襲われるんじゃないかと怖がって。そこで誰かがお話を始めた。みんながこわがらなくてもいいように」。人間は火を使い始めてサルではなくなったとよく言われるが、その火のそばには「お話」があった。それは怖さから身を守るためのものだった。暗い中でも語ることで誰かが救われるかもしれない。そんな文学の役割はいつも変わらない。今も変わらない。

 作品が書けなくなってゼルダも精神を病んだのちのフィッツジェラルドが何度か出てくる。そのフィッツジェラルドに対して傲慢なウルフは「お前の小説は短かすぎる」なんて言う。「もう数年書いてないだろ。ちゃんと書け」と。これは切ない。人の痛みの分からないウルフにパーキンズはキレる。 「お前は今日何語書いたんだ?彼はいい日でも100語しか書けないんだぞ!」と。書けなくなった作家なのに、パーキンズはフィッツジェラルドを見捨てない。

 だからフィッツジェラルドもその恩を忘れない。のちにハリウッドで脚本書きをしているフィッツジェラルドのもとにやってきたウルフはパーキンズのことを悪しざまに言うが、フィッツジェラルドは「恥を知れ!」と怒る。彼にはgenius for friendshipがあるんだ、お前はそれを裏切った、と。

 映画の原題はgeniusで、見る前は「天才」ってのはウルフのこと?あるいは天才編集者パーキンズってこと?って思っていたが、この「才能」のことだったのか。ウルフには作家としての才能がありパーキンズには編集者としての、そして友情の才能があった。geniusの形はひとそれぞれだ。

 この場面でフィッツジェラルドが「去年のギャツビーの印税は2ドルちょいだ」みたいに言う場面、これまた切ない。なのだが、死んだ後にも読まれるかどうかが気になるんだ、というウルフに対してフィッツジェラルドは「俺も若いころはそうだった。でも今はただいい文章を書きたいと思っている」と答える。

そして今でもギャツビーは読まれている。なんだかフィッツジェラルドへの愛がある感じ。

いい映画でした。
 

2016年10月23日日曜日

Sayed Kashua, Second Person Singular

 以前エトガル・ケレットとの往復書簡を訳したことのあるアラブ系イスラエル人作家サイイド・カシューアの小説を(英訳で)ようやく読んだ。
 

 カシューアはアラブ系のイスラエル人で、ヘブライ語作家であるが、2014年夏のイスラエルのガザ侵攻に伴って高まったアラブ系市民への敵意を憂慮し、家族を守るためにアメリカへの移住を決意する。二級市民扱いをされながらも同化しようとしてきた母国、その母国と作家としての唯一使える言語であるヘブライ語を捨てざるを得ないカシューアの苦境はとてもショッキングなもので、さらには彼の移住先が私もゆかりのあるイリノイ州はアーバナ・シャンぺーンということもあって、私も非常に心が痛んだ。そのカシューアの2010年の小説である。

 物語は弁護士として活躍し、裕福な暮らしを誇るアラブ系イスラエル人が、古書店で買った本に挟まれた妻の筆跡のメモを発端に、妻の不貞を疑って事実を突き止めんとする話と、同じくアラブ系イスラエル人であるがもっと恵まれない境遇にあるアミールというソーシャルワーカーが、ユダヤ人家庭の植物状態の男ヨナタンの介護をする話とで交互に進んでいく。

 弁護士は裕福だが、同じように裕福なアラブ系ユダヤ人たちとのスノッブな裕福さ自慢に疲れている。最高級の寿司を買ってホームパーティを催し、気取ったディベートをする。本屋に行っても『チーズはどこに行った?』を買うのは恥ずかしく、ヒップな趣味のよさを演出するために古典を買うときは誰かへのプレゼントのふりをするまでに自意識にまみれている(ちなみにそんなヒップな趣味の一例としてイタロ・カルヴィーノとともにMurakamiが使われている)。

 アミールの方もまた自意識で身動きの取れないタイプで、ダンスパーティに女性と行ったのを職場の同僚にみられただけで帰ってしまう。そんな彼が植物状態のヨナタンの世話をし、彼の本を読み、音楽を聞き、そして彼の部屋にあったカメラを持ち出す。残されたフィルムに映っていたのはこうなる前のヨナタンの最後の瞬間であった。

 アミールはヨナタンの服を着て、ヨナタンになっていく。写真学校に通い、IDを書き換える。ヨナタンの母もそれを止めはしない。ベッド上のヨナタンが消えればアミールは完全にヨナタンとなる。

 Passingの問題はアメリカ文学でも黒人が白人としてpassする話(フォークナーのジョー―・クリスマスとか)としてアイデンティティの問題としてよく扱われるテーマであるが、アラブ人がユダヤ人としてそんな簡単に通るものなのか?という疑問が浮かぶ。

 物語自体は弁護士の妻の不倫の謎を中心に謎解きのサスペンスで進んでいくので引き込まれるのだが、ただ、このメモにしても、たとえ妻の筆跡であっても必ずしも不倫ではないんじゃないか?古書店で買った本に挟まっていたというのはできすぎではないか?とか多少の引っ掛かりはある。

 とはいえ、異国イスラエルの小説で複雑なアイデンティティの問題を扱い、その背景も描かれているのは勉強になった。

 そういえばイスラエルのアラブ人社会は描かれるけど、マジョリティであるユダヤ人の世界はあまり描かれていなかったなあ。

 二つの物語は、弁護士の章が3人称、アミールの章が1人称と人称を変えて展開する。タイトルはそこに由来するのだろう。二人称単数といえば「あなた」ということだけど、3人称と1人称の間にあって、この話で言えばそれはヨナタンのことか、singularというのは「単数」で、アミールとヨナタンが「ひとつ」になることか、でもindividualの意味もあるから、それぞれ別なのだ、みたいな含意もあるのかな、なんて思った。また読みたい。

2016年10月17日月曜日

(ちょっとだけ)オープン・ゼミ with 福永信

 甲南大学文学部英語英米文学科の自分のゼミに作家の福永信さんを迎え、(ちょっとだけ)オープン・ゼミを開催しました。昨年は一般公開の講演会でしたが今年はもっと小規模に、親密な感じで、みんなで『星座から見た地球』についておしゃべりする、というのがコンセプトだったので、あんまり大人数にならぬよう、申込制にして(ちょっとだけ)オープンにしたのです。
ねぼけてとぼけたメガネ兄弟ってかんじ。ともに顔がマンガっぽいのか。

  『星座から見た地球』を読んだうえで学生に各組10分間のグループ発表をしてもらったのですが、ワタシの予想をはるかに上回るおもしろ発表の連続でした。先週の時点でリハを披露したグループがすでに相当優秀だったのですがそれに触発されたようで、みんなよく頑張ってくれました。中でも福永さんの「謝辞」をパロって見せたグループのセンスには「やられた!悔しい!」って感じでした。

通常比180%くらいのがんばり

就活で忙しい4年生もがんばった!
福永さんのコメントも懇切丁寧、かつハッと思わされるものが多く、いい感じの相互効果が生まれた気がします。

 書き手を前にして発表するなんてキンチョーして当たり前(ワタシもちょっとだけ発表しましたがキンチョーしました。作品愛が強すぎてプロなのに批評的ではなかった(笑))ななかみんな堂々と上手に発表してて立派なもんでした。

記念撮影
楽しくて時間も忘れてしまい、2時間半の授業のあと、20名ほどの打ち上げで4時間はいたな。福永さんはその間ずっと学生とも気さくに話し、サインをし、進路の相談に乗ってあげたり、ありがたいことです。さすがは秋元ゼミ公認作家であります。


事件は未遂で終わりました。

 昨年ゼミ生にもらった福永&秋元Tシャツを年に一度着る日となったので、これから毎年一回は来てもらおうと決めました。

新たに書き足されたメッセージ

2016年10月9日日曜日

The ピーズ ワンマン at 神戸 太陽と虎

 初のピーズ、ワンマン。





 いいねえ。ロックバンドだよねえ。かっこいいねえ。スリーピースだよ。

 アホの子みたいでカッコイイ!(「アホの子みたいなのに」ではないんだなあ)

 「真空管」「とどめをハデにくれ」 「幸せなぼくら」「サイナラ」「泥船」「東の窓」「底なし」「焼き飯」「生きのばし」。本編で覚えているだけでもこんだけある。全部かっこいいや。発明レベルの言葉がグサグサ来るね。

 「くたばる自由に 生きのばす自由」

とか

 「サイナラも答えも知らない、ぼくらは未来にずれていく、帰れないほうへ」

とか

 「うまくやれなかった、そのぶん、うまく見失うぜ」

とか、いろいろあるんだけど、今日一番頭に残ったフレーズは

 「みすぼらしい、元犬がいる」

である。

 「元犬」とは「現」なんなのか?

アンコールの「三度目のキネマ」から「体にやさしいパンク」、もーサイコー。
そして「でいーね」「まったく楽しいぜGoGo」。

二度目のアンコールは「デブジャージ」「グライダー」「脳ミソ」「Yeah」で大騒ぎ。

知らん間に前に押されて脳ミソ半分取れたわ。

CD買った。
また行く。ぜったい行く。チョー楽しい。

2016年10月8日土曜日

柴田元幸朗読会at神戸グッゲンハイム邸

 柴田元幸先生朗読会atグッゲンハイム邸に仕事辞めたてホヤホヤの元ゼミ生とともに行く。JRで行ったら途中に須磨海浜公園って駅があって「いつの間に!」と驚く。
 
 塩屋の駅って初めて降りた。大江千里に「塩屋」って歌があったような。駅の山側から行くが道が暗くて人気がなくなんだかジブリ映画みたいなノスタルジー。そんな闇の中に現れたグッゲンハイム邸、幻想的である。
 
 神戸市外大の先生方がお揃いなのでなんでやろ?と聞いて見ると、柴田先生、外大で客員教授をされていて、今日もセミナーやって、昨日は関大で講演、明日も外大で小川洋子さん(!)との対談だそう。タフだ!しかしそういう情報はなんで回ってこないのか。

 前に並んでいた方も外大の卒業生だと判明し、3人でキーマカレーを食べつつ色々喋る。若い人は脱サラ同士。

 


 建物がいいんだなあ。天井高いし。

 満員である。さすが柴田先生、集客すごいなあ、っていうのと、神戸、いるんやな、文学の人、文芸の人、本の人、いるんやな、って思った。ふと横を見ると大好きな古本屋、ネコのぶんちゃんでお馴染みのワールドエンズガーデンの店主小沢さんもいてはる。そうなのだよ、行くとこ行ったら本好きはいるんだよね。自分ももっと外出なきゃと思った。大学の中だけじゃなくってね。
 
 朗読って集中して聞かなきゃいけなくって、しかも狭い空間で座って耳をすますってあんまりないことで最初はちょっと息苦しいというか聞いてる方なのに緊張した。それが休憩挟んだくらいから楽になっていく。全部聞き取ろうとしない、わかろうとしない、ただ空間の心地よさと音の心地よさに身をまかせる、それが気持ちいい。

 ぼくらはふだんから欲張りなので、何かを聞いたら面白くなきゃいやだ、笑わせてほしい、何かを知識を得たい、とかそんなことばっかり思っている。でも、今日わかったのは、何も「おもしろい!」とか「発見!」とかなくっても「心地よさ」に身を委ねる時間があることの豊かさ。無理して面白がったりはしゃいだり、刺激を求めなくっても、気持ち良いはある。小さい頃ってこういう時間がいっぱいあったなあ。

 そして文学っていうか、そんな大上段に構えずとも、ことばの力ってこういうことなんじゃないかと思った。わかってもいいしわからなくっても気持ちがよい。今日朗読で聞いたお話は明日には覚えてないかもしれない。それでもいいじゃん、今気持ちよかったんだから。そう思った。

 終演後にこの洋館の庭でテーブルを囲みたむろする人たちは、この心地よさからまだ離れたくないのだ。ワタシもそうだった。が、氏が待っているのでそういうわけにもいかず帰宅。

 いい夜だった。

2016年9月29日木曜日

エトガル・ケレットさんのエッセイまだあるよ。

4月にエトガル・ケレットさんの『あの素晴らしき7年』の翻訳を出しました。

本としてまとまっているのはこれだけですが、ケレットさんの英語で発表されたエッセイで、訳し終わっているけれど、まだ日本で活字になっていないものがいくつかあります。

各種媒体でご興味のある方、ご連絡をお待ちしております。コメント欄でお伝えください。

 彼のことばはできるだけ多くの日本の読者に伝えたいので。

2016年9月25日日曜日

バンドトモフ at 十三ファンダンゴ

 土曜なのに木曜授業の振替日で、週末の区切りがよくわからなくなるも、仕事モードの頭のまま、バンドトモフat十三ファンダンゴ。

 最近のよくあるパターンだが、初めての場所は事前にgoogle mapである程度見てなんとなくで行って、結局迷う。今回も迷った。十三の街は猥雑でいいね。会場着くと入場待ちの人人人。え!こんなに入るの?とビビる。晩メシを食べ損ねたまま入場&ビール。

 待ちに待った新譜の『SHAAAA!』は、歌詞が「思ったことをそのまま言ってる(だけ?)」感が強くて(たとえば「真夏」)、あと、「なくてもよかった日」とかネガティヴに振ってる曲も多く、なんとなくこれまでの良さや深みが感じられなかったのだけれど、ライブで聞くと楽しい。「真夏」のコーラスは3周目までガマンとか「このままでいたいなら」の掛け合いとか、オーディエンス参加を意識して作ってるのだな。


 「希望の星」ってスターの話で「僕の大好きなあのヒトがちゃんと幸せだったらいいな、ちゃんと裕福だったらいいな、幸せでいてもらわないと」って、そういう思いは確かに誰かを応援する人にはみんなあるんだろう。ぼくも好きな作家には幸せでいて欲しいと思うし、そしてトモフにも思うわけで、スターが幸せであって欲しいと願う歌を歌うトモフの幸せを客席のみんなが同じように願ってるんだろうと。

 なのでまだまだ「引越し」はしないでいただきたい。「いつでも引越しできるように荷物を減らそう」「手ぶらで生まれて来たんだから手ぶらにもどれるさ」、なんだけど、でもまだ引っ越さないでね。

 往年の名曲も色々あった。トモフのライブが面白いのは、その時々で、自分の状態で心に残る曲が違うってことだ。昨日は「オトナなので」が印象深かった。 「もう我慢してる余裕はないんだ。オトナなので」。そして「星ラップ」。「こんな年になってぼくは星を見る。神様よりお星様」。別に自分の年齢なんて気にしてないけどなんだか引っかかった。だから「歌う50歳50歳」で、最初これ聞いた時って「歌う36歳」だったはずで、トモフはつねにぼくを5歳先行するのだが、もう自分もそんな36歳なんかとっくにクリアしてるので感慨深い。
 

楽しい夜でした。もちろん「まめぞう」も含めて。

2016年8月23日火曜日

スピッツ『醒めない』について(とりわけ「子グマ!子グマ!」のこと)

 スピッツのニューアルバム『醒めない』が発売されて、ずっと聞いている。ずっと聞いていて、相変わらず「いい」んだけど、これは今まで以上になんだか特別なアルバムな気がしている。ので、それをなんとか言語化してみたくなっている。相変わらずキャッチ―なメロディで心地よく、聞いて楽しいのではあるが、それだけじゃない。それが集約されているのが三曲目の「子グマ!子グマ!」ではないだろうか。この曲、相当変である。相当変で、一番のお気に入りである。いったいなんなんだろう?

 最初何回か聞いているときにまず印象に残った曲は「みなと」だった。これはポスト3.11だ、震災の歌だ、と思った。97年の「運命の人」は明らかに95年の阪神大震災とオウムの事件を背景としており、でもあのころは「悲しい話は消えないけれど」「もっと輝く明日!」という希望を持つことが可能であった。それが2011年の東日本大震災で変わる。壊れたものを「復興」してゼロに戻して「輝く明日」を描くことがまだ可能であった阪神の時と違って、端的に言えば原発の処理の問題がすべてを象徴するように、ぼくらはもうゼロに戻すだけでも気の遠くなるような時間がかかる世界に放り込まれた。オリンピック招致のためにこの国の首相が福島の原発は「アンダー・コントロール」だと言った時には耳を疑ったが、それが嘘だってことはみんな知っている。コントロールなんてできていない。汚染水は海に漏れ、原発の後処理に何次下請けかわからない作業労働者が多数つぎ込まれ、福島の住民たちはいまだにふるさとに帰れない。放射能は目に見えないし健康被害があらわれるには時間がかかり、表出した時にも政府や東電は因果関係を認めないだろう。先の震災が作り出したのはそういう、楽観を許さないひたすら続く「憂鬱」な現実だ。

 そんな「輝く明日」を希望できない現実を、「みなと」は極小の個人の世界として描いた。「遠くに旅立った」きみを思い、みなとで一人歌を歌う人の話として。いなくなってしまった「きみ」の記憶、痕跡、そういった「証拠」も徐々にぼやけていってしまい、かつては自分もなれると思っていた微笑む幸せそうなフツーの家族たちには、もはやなれないと知り、ただきみを思ってみなとで歌う人の物語。

 美しいメロディ、みなとに立つ「ぼく」の頭上に舞うカモメの鳴き声のように寄り添う口笛の音に心を揺さぶられる。

 それでまたなんども聞き直していると今度は一曲目の「醒めない」の「六大陸」に聞こえるのは「ロック大陸」なのだと知り、これまた歌詞を見てみるとロックの初期衝動がまだまだ「醒めない」っていう歌で、アルバム自体のコンセプトを導入する曲になっている。なんだか「マジカル・ミステリー・ツアー」にも聞こえる。

で、「みなと」が来て、三曲目。問題の曲。「子グマ!子グマ!」である。

 まずはタイトルが、仮にもロックバンドで「子グマ」である。可愛い印象しか浮かびえない。しかもエクスクラメーション・マーク付きで繰り返すという。なんだけど曲は結構ロックでスリリング、ギターかっちょいい。かつ展開が変である。AメロBメロサビ、のあとにメロディのない謎の「子グマ」コールがあるのだ。そこの詞は

子グマ!子グマ!荒野の子グマ
おいでおいでするやつ 構わず走れ
子グマ!子グマ!逃げろよ子グマ
暗闇抜けて もう少しだ

 うーん、わからん。子グマへの励ましなのはわかるけどまずは子グマがなんのメタファーなのかわからん。そしてこの部分のリズムって変形の三三七拍子、つまりは応援団的なリズムをあえてハメてるように思うのだ。

 歌詞も全体に意味がよくわからないのにフレーズだけで「おおっ!」って引っかかる天才的なセンスがある。たとえば

半分こにした 白い熱い中華まん 頬張る顔が好き

 「中華まん」を歌詞に放り込めるのは草野マサムネだけだろうし、それを「半分こ」って表現の可愛さで包み込み、かつ「頬張る顔が好き」って臆面もなく言ってしまう。

 あるいは

トロフィーなど いらないからこっそり褒めて
それだけで あと90年は生きられる

 これなんかも引っかかる。他人から与えられる客観的な評価なんていらないから、きみさえ褒めてくれれば頑張れるぜ、ってそこは相手との関係性が恋人であれ 親子であれなんであれ理解できる感情ではあるが、なんだけどなんで「90年」なのかな?90年あればたいていの人間は死ぬので、今生まれたての命であって も見届けることができるってことかな?じゃあ、「子グマ」って子供のこと?「バイバイ僕の分身」ってあるし。

幸せになってな ただ幸せになってな
あの日の涙が ネタになるくらいに
間違ったっていいのにほら こだわりが過ぎて
君がコケないように 僕は祈るのだ

ってのも親目線だってのに当てはまる。

 なんだけど、これ、子供を見守る親の話ってしちゃうとそんなにおもしろくないのでなんか他の読みようがある気がしている。ひとつ思うのは、自分も聞いてい てなんだか「わかる」気がするのは、子に限らず小さな存在を見守って励ましたいって気持ちが(たとえば学生に対してとか)自分の中にもあるからで、そういう「すべての親的な心情」を歌った歌か、というのが暫定的解答。

 その次が「コメット」で、これは胸キュンなメロディな良曲なばかりか、またしても歌詞でやられる。

黄色い金魚のままでいられたけど
恋するついでに人になった

スピッツの詞によくある(気がしてる)「転生もの」である。思い出したのは「エトランゼ」。

目を閉じてすぐ 浮かび上がる人
ウミガメの頃 すれちがっただけの

転生なのか進化なのかは不明だが、二人は今世の前にも、あるいは太古の昔にも、ウミガメとして一瞬会っていたんだよ。この歌詞の輝きはいまだに薄れない。

「コメット」の方は、「生餌を探して」いたのは魚だからか。金魚の品種の名前でもあるし、流れ星だから、願いをかけて人になったのかな、でも「ついでに」なんて言っちゃうのは強がってるのかな、なんて思う。

「切れそうなヒレで泳いでいく」ってとこでまたうーんと唸る。「また会うための生き物」ってことは、別れて行ってもまた転生して別の生き物になって会うのかな。

 江國香さんの名作短編「デューク」を思い出す。犬のデュークが死んじゃって「びょおびょお」泣いていた女の子の話。犬の視点だったらこんな感じかなアとか。

でもこれまた謎、かつ謎なのになんか「いいなあ」って思う部分があって、それが

ゴムボールが愛しい

である。犬ではないしゴムボール、金魚が人になったきみにはそれほど愛しくはなかろう、と思うのだが。でもなんか子供時代の日も暮れかけた屋外にたたずむゴムボールを思わせて、わからないのにノスタルジーを感じる。

 アルバムはまだまだ続くが、とりあえずここまで。 まだまだ謎だらけだしここまでもまるで解決しない。そのどこまでもいつまでも読めるところがスピッツのよさだと思う。

 

2016年7月8日金曜日

ヨシタケシンスケ『もうぬげない』

 ヨシタケシンスケさんの絵本が好きだ。このイラストのなじむ感じはなんなんだろう?線は少ないのに情報が多い気がするのはなぜだろう?みんな2.5頭身でおなかがぽっこり出たスタイルなのがいいのか。線が微妙に揺れているのがいいのか。



そんなヨシタケシンスケさんの絵本のなかでも、最近入手したこれはまたさらにお気に入りの一冊だ。
 
服を脱ぐときの、脱ごうとしたけれど脱げない時の、「バンザイ状態」。昨年福永信さんの『星座から見た地球』という傑作小説を読んだ際に、このいろんな子どもたちを描いた作品にも「バンザイ状態」が出てきて感銘を受けていたのだが、『もうぬげない』は、それに続く「バンザイ状態」ものであり、「バンザイ状態」そのものがテーマなのである。

ズボンも脱ごうとして「もうおしまいだ・・・」となるページなんかサイコーである。

子どもの時間、一つのことに夢中になって一瞬なのに縦横に妄想を巡らす子どもの時間を描いて、大人も笑わせる。

達人だと思う。

2016年6月12日日曜日

円城塔さんの『あの素晴らしき七年』評(『朝日新聞』 6月12日)

 『あの素晴らしき七年』の書評、朝日新聞に載りました。作家の円城塔さんによるものです。(リンクはこちら
 
 これを読んでの感想が複数の方から届いたのですが、いずれも「日本人は海外で「日本人であることを恥じているか」と問われることもない」という部分に違和を感じ、他者の抱いているイメージから逃れられないのは、ユダヤ人やイスラエル人だけではなく、すべての人に当てはまる普遍的なものであり、この本も 「特殊」な国家や民族の話ではなく「普遍」的なものとして読んだ方がいいのでは、ということを伝えてくれていました。

 それはそのとおりで、我々はみな他者から付与されるステロタイプなイメージからは逃れえないし、人はえてして国家とかエスニシティという属性から個人を判断しがちで、それはユダヤ人やイスラエル人に限った話ではないでしょう(とは言っても、ユダヤ人に理不尽にも科せられたスティグマに比するほどのアイデンティティの暴力的な否定は、他の人はなかなか経験することのないものだと思いますが)。

 なんだけど、この反応がおもしろいなと思ったのは、「特殊」としての読みと「普遍」としての読みが、そのままこの本の奥行きの広さを表していると思ったからです。

 海外のある書評がケレットの作品は「ターディス」だ、って評していて、これワタシとても好きな名書評で、当初帯にも推薦したんですけど、ちょっと説明が必要で難しいですよねって話になりました。 ターディスってイギリスの『ドクター・フー』ってSFドラマに出てくる次元超越移動装置で、外見はちっちゃなポリスボックスだけどなかが広くていろんなとこ行けると。で、ケレットさんの作品ってまさしくターディスで、なりは小さいけど中身がでっかく、しかもなんか次元が歪む(笑)。

 なので、ある国と民族のspecificな話として読もうと思えば縦にいくらでも伸びるし、もっとuniversalなものとして読もうとすれば横にもびよーんって伸びる。ちっちゃななかにそういう無限の伸縮性がどの方向にもあるってのがスゴイところではないかと思うのです。


 で、そういう「普遍」的なものとして読んだ方がいいよ、という反応を引き起こして読者に考えさせた(そしてワタシも朝から考えた)という点でも、この円城さんの書評はとても優れた書評だと思います。表面をなぞって紹介するにとどまらない踏み込んだ書評だからこそ、読んだ人が反応した。


 もうひとつ思うのは、円城さんがケレットさんの「特殊」な立場に思いを馳せるのは、やはり同じ作家という立場にあるからではないかということです。昨年の来日時にイベントで対談しているというのもありますし、円城さんは人としてのケレットさんを知っている。そして、ときとして民族や国家を背負わされ、国に帰れば自国の人からも非難されかねないケレットさんの立場を、同じく作家として世界にたった一人で言葉だけをもって対峙する立場にある円城さんは深く共感したのではないかと思うのです。円城さんやほかの多くの日本の作家が書いたものが自国や日本語で出版されず外国でだけ出版されるという事態はたぶんないでしょう。それだけに、そういう選択をしたケレットさんの「特殊」な状況に思いを馳せるのではないかと思うのです。


 だからこその最後の文章です。「それでも、ケレットの理知的で強靭な精神は笑いを忘れることがない」。ケレット一流の笑いの背後にある「理知」と「強靭」さを円城さんは正しく読み取っている。そこでは「特殊」から出発しながらわれわれみなが「普遍的」に知っておくべき知恵に到達しているのではないか。
 

 最近よく思うのですが、だんだんギスギスしてきた世界や社会のなかで、大事なことは、自分の身の回りの集団に向ける愛や寛容さと同じように、はるか遠くの名も知らぬ誰かに思いを致すことなのではないかなと。特殊であって普遍でもあるこの本はそういうことも気づかせてくれます。

 さすがのターディス、いい本だなあと改めて思ったのでした。

2016年6月2日木曜日

エトガル・ケレット 『あの素晴らしき七年』 書評情報

 エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』が出版されてひと月が経ちました。この本を、そしてケレットさんを気に入ってくれて、大事に大事に読んでくださっている読者の皆様の声をネットや生で頂戴して大変うれしく思っております。なるほどそう読めるかーと、気づかされることも多く、いち読者でもある訳者としては、とても豊かな経験をさせてもらっているなあと感謝の気持ちでいっぱいです。

 紙媒体でも各所で取り上げてくださっておりまして、おそらくはこんなに速くこんなに多くの書評が出るというのはとてもラッキーなのではないかと思います。情報を共有するためにここまで出た書評をリストアップして、都度更新していきたいと思います。載っていないものがありましたら、コメントで教えていただけたりするととても助かります。よろしくおねがいします。

・西加奈子さん 「勇気の書」(『波』 2016年5月号)
・湯川豊さん (『毎日新聞』 2016年5月22日
・松田青子さん 「日常が歪む瞬間」 (『毎日新聞』 2016年5月25日夕刊)
・豊崎由美さん 「天才と呼ばれた作家のマジカルな日々」 (『週刊新潮』 2016年6月2日号)
・『エル・ジャポン』 2016年7月号
・倉本さおりさん 「タフなユーモアが描き出す「イスラエル」という日常」 (『週刊金曜日』 2016年5月27日号)
・岡崎武志さん 『サンデー毎日』(2016年6月12日号)
・円城塔さん 「笑いと日常 その陰にあるもの」(『朝日新聞』 2016年6月12日)※6.12追記 
・藤井光さん 「ポケットに入れたい言葉」(『京都新聞』 2016年6月26日)※7.1追記

なかでも倉本さんの書評は本作をとても深く読んでくれていて感銘を受けました。私たちがつねに使っていながらときとしてその重みを忘れてしまう「ことば」について書いてくださっており、最後は次の一文で結ばれています。

「その優しい、切実な祈りに、私たちは言葉の使い方を学び直すべきなのだろう」

もう一点、とても機知に富んだ記事を書いてくださっているブログを見つけました。 『未翻訳ブックレビュー』さんが本書の「架空の賛辞」を作ってくれています。これが、もうほんとにうまい!まるでケレットさんの掌編小説のようにコンパクトで、笑えて、そして深遠。本書のファンの皆さんなら確実に気に入ることと思います。7つの「架空の賛辞」、いずれも甲乙つけがたいですが、とくに4番目のカフカとヴォネガットとカーヴァ―のやつ、ピリッと辛みが効いてていいなあ。読んでみてほしいです。
(※『未翻訳ブックレビュー』様 コメント欄がなかったのでリンクのお願いができませんでした。勝手にリンクしてすみません。万が一問題がある場合はリンクを消しますので、コメント欄でご連絡いただければ幸いです)

2016年6月1日水曜日

エトガル・ケレットの魔法と文化的配管工

 拙訳のエトガル・ケレット著『あの素晴らしき七年』が出て、日本の潜在的ケレットファン全てに届いてほしい!と毎日願いながら過ごしている。きっと好きな人たくさんいると思うんだ。

もともと英訳で短編を読んで、「あー呼ばれてるな」と思って、自分でもそれまでにないほど使命感を感じて売り込んだ(そのあたりの事情は過去記事へ。「エトガル・ケレットのこと」「エトガルと新宿で 1」 「エトガルと新宿で 2」 「エトガルと新宿で 3」)。

エトガル本人に会い、メールのやり取りが始まり、本書のいくつかの章となったエッセイを日本で翻訳してどこかに出して欲しいという話になって、勢い込んで売り込んだものの、半年頑張っても目が開かず、じりじりする思いでいた。それでも、なんとかしなければ!という思いが続いたその気持ちは今まで感じたことがなかったもので、多分それは最初に"crazy glue"を読んだときからぼくがエトガルの魔法にかかっているからなのだと思う。

魔法の効果はてきめんで、未だにぼくはその幸福な魔法にかかったままだ。作品を読むたびにますます好きになり、本人に会うたびにますます使命感に駆られる。こんなワクワクする経験、今までなかった。

そしてエトガルの魔法は日本の読者にさらなる魔法をかけていく。

ぼくと同じように「あー、呼ばれてるわ」と思う人たち、思う存分幸福な魔法に身を委ねて欲しい。

作家の西加奈子さんもそんな一人かもしれない。『波』に掲載された書評「勇気の書」で本書を絶賛してくださっている。書いた作品を読むより先に本人に出会ってファンになり、そして本書を読まれて「これはエトガル・ケレットそのものだ」と思われたというエピソードは、やはりケレットならではの魔法を雄弁に語っていると思う。

書くものも魅力的で、『あの素晴らしき七年』を読めば多くの読者はきっとこの語り手のことを好きになってしまうと思うし、また本人に会ったら会ったで、なんかこの人のためにしたい!と思ってしまう。そういう魅力がケレットにはある。

サービス精神も一つの理由だろう。読者ごとに異なったイラストのサインをしてくれるような作家はそうそういない。


今回の翻訳の出版時にはタイミングが合わなくて来日が叶わなかったが、かわりにこんなビデオを送ってきてくれた。


並みの作家は普通そこまでやらない。やる必要がない。でも、ケレットはやっちゃうんだ。作家がここまでやってくれたら、ここまでの熱意を見せられたら、まわりの人間もがんばんなきゃって気になる。それが楽しい。まわりを幸せにしてしまう不思議な力が、この人にはあるんだよなあ。



翻訳をしながら頭の中にあったのは一本のパイプだった。エトガルの最初の短編は「パイプ」(『早稲田文学』)だし、その短編が生まれたいきさつを書いた「ぼくの初めての小説」で、プリントアウトして兄ちゃんに読んでもらってゴミ箱に捨てられた原稿を「パイプ」と表現していたことも頭にあったのかもしれない。

自分ができることはなんなのか、と考えた時に、こうして面白いと思った作家や作品を、今はまだ届かずにいるけどきっと必要としている人に届かせるための、細いかもしれないけれどパイプを一本渡すことだと思った。太い土管をたくさんつなぐことはできなくとも、細くとも一本繋がればそこからパイプは増えていくかもしれない。そんな文化的な配管工でいたいと思った。

そう思わせてくれたエトガル・ケレットの魔法、どうにも、まだまだ、覚めそうにない。

本人のスケジュール上の都合もあって、そしてこちらのお金の問題もあって、だいぶ先になるのだが、2018年の3月頃にはエトガルと奥さんのシーラを甲南大学に呼んで、映画のスクリーニングとトークのイベントを催したいと現在画策中。

日本全国から魔法にかかったみなさんが来てくれたら嬉しいです。

2016年5月27日金曜日

ひとりトモフat神戸マージ―ビート

 昨年10月「夢半島千葉ナイト」ではじめてうごくトモフを見て衝撃を受け、年末にはAKASOにバンドトモフを見に行きすっかりトモフづいている。もちろんCDはずっと聞いているし、音楽はトモフとピーズと水戸華之介があればいいってかんじではあったのだが、ライブづいているのである。今回は初のひとりトモフ。ひとりってどんなんかな?ギター弾き語りか?といろいろ未知のまま、昨年買ったSHAAAA!Tシャツを着て出陣。「夢半島千葉ナイト」で買った紺のTシャツはサイズがなくて無理やりSを買ったのだがやはりぴっちぴちで入らなくて、それでこのSHAAAA!を買ったものの、ピンクでかわいらしいかんじだし、こちらは腹が肥えてるしであまりに似合わないのであるが。

昨年ニャオルとともに買ったこのTシャツは似合うはずだが残念ながらサイズが違う

そしてこちらはサイズはOKだがかわいらしくて小太りのオッサンには荷が重い

 会場入るとすでにステージ上にトモフ。最初の曲なんだったっけ?

今日のテーマは「先日の横浜でのバンドトモフに勝つ!」とのことで同じセットリストを一人でやるという。ギター弾き語り+バスドラ、途中カラオケもあり、観客によるコーラス録音もあり、楽しい。どんどん引き込まれていく。

この人のライブの仕事の多さってもっと知られるべきだと思う。楽器弾いて歌って、合間にはおしゃべりで客を笑わせ、踊りまくり跳ね回る。休憩一切なし。全部ひとりで対峙してそのうえ客を満足させる。プロである。本当のプロだ。

6月にはアルバムを完成させるとのことで、タイトルはこのTシャツらしい。

終盤に向かうにつれてどんどんトモフの多幸感がこちらに伝染してきて、しかも二度目のアンコールは「一日が終わる」から「ほめてよ」、そして「終わらない映画」と大好きな名曲3連発で、もう最後の「終わらない映画」での盛り上がりまでただただ幸せな時間であった。楽しかったなあ。

さらには最後に今日神戸までくる新幹線で作ったという新曲「待ってらんない」がお披露目&聴衆との合唱で幕を閉じた。

やっぱりトモフはいいなあ。曲もいいしライブもいい。

次もまた行こうと思う。
トモフが「どんなズボンをはいていたとしても!」



2016年4月29日金曜日

甲南大学生協書籍部

 うちの大学の生協書籍部、サイコーであります。

 拙訳のエトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』(新潮クレスト・ブックス)の発売に際して、「手製のポップ持っていきますんで掲示してもらえますか?よろしくおねがいします」とお伝えしていたところ、なんとこんな大々的な展開をしてくれました。

入口正面のディスプレイ。中央の一冊はネコに支えられているのだ。

こちらは店内。新潮クレストのミニコーナーでもある。
これはすごいとエトガル本人に写真を送ったところ、喜んで早速自身のFacebookに載せてくれました。いち教員のわがままにここまで付き合ってくれる書籍部、素晴らしい!うちの学生にもたくさん読んでもらえたら嬉しいです。

ワタシは自分の単著がまだない(「はやく単著を出そう」という師匠の声が・・・あぁ。いや、この次にがんばりますよ!)のですが、想像するに自分の本だとなかなか積極的な営業は照れくさくてしにくいであろうところ、翻訳者で、しかも作者が好きな作家で友だちでもあるという関係ゆえ、なんだか気分は応援団、 とにかくいろんな人の手に届けるべくがんばるモードとなっております。

ということで今日は大阪神戸のめぼしい書店を回って手製のポップを掲示してもらえないかお願いしてきました。みなさん快く受け取ってくれて感謝です。

「重版がかかってようやく出版社への義理を果たしたことになる」というこれまた師匠の言葉を思い出します。そしてすべては、ひとりでも多くの日本の読者にエトガル・ケレットという作家を知ってほしいという思いから始まったことなので、それができるというのはとても楽しくもあります。

今回は来日が叶いませんでしたが、ケレットさんは翻訳が出版されるとできる限りのその地を訪れる作家です。昨年の春に『突然ノックの音が』の出版に合わせて日本に来た時も「来なければぼくの本が売れる可能性はノーチャンスだ。でも来れば可能性が生まれるかもしれない」と言っていました。

書店で見かけたら手に取っていただければ、また、お知り合いなどにお勧めいただければ幸いです。よろしくおねがいいたします。

2016年4月21日木曜日

エトガル・ケレット 『あの素晴らしき七年』

イスラエルの作家エトガル・ケレットのエッセイ集『あの素晴らしき七年』が、新潮クレスト・ブックスより25日に発売となります。私にとっては初めての翻訳書です。

Finally, the 20th sibling of Etgar Keret's The Seven Good Years is coming out in Japan in a week!

見本が届きました。アメリカ版を踏襲したジャケット。目立つ!


アメリカ版と双子である。


表紙裏のblurbはな、な、なんと、西加奈子さん!

この下にすごいことが書いてあるぜ。


なにが書いてあるかは・・・



見せて・あ・げ・な・い♡




来週水曜くらいから書店に並びますので、ぜひ本屋でご確認を。

「それは西加奈子さん、あなたもですよね?」とうるうるしてしまった。またしても腹が熱くなった。

読んで楽しんでもらえれば、そして本好きのお友だちに勧めていただければ嬉しいです。よろしくおねがいします。

2016年4月2日土曜日

木村友祐 『イサの氾濫』

 青森は八戸の街に、東京で職を失くした将司が帰ってくる。伝え聞いた暴れ者の伯父勇雄について知りたいと思う。親戚中に迷惑をかけ、実の兄に殺されかけた伯父である。

 小説が描くのは震災後の八戸で、将司が言うようにそこは被災地とはいえ「一人しか死んでない」。もっと大きな被害を受けたところと比べたらまだマシであり、将司は思わず父親に「被害者面するな」と言ってしまう。

 でありながら、自分は東京で繰り返される「がんばれ東北」という無責任な言葉にも嫌悪を感じ、上っ面だけの言葉で自分の良心を肯定してあとはきれいさっぱり忘れてしまえる人々を憎む。

 身の置き所もなければなにか行動を起こすこともできない。ただただ違和感を胸にわだかまらせているだけなのだ。

表紙


 冷遇されてきた東北の歴史、そしてそれがメンタリティに書き込まれ、惨状を訴えることもなく声を飲み込むばかりの東北の人々が見事に描かれている。被災者なのに「東京の人にお荷物だと思われてはいないか」と心配する小夜子に。角次郎の次の言葉に。

 「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されたわげだがら、余計厄介なんだどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたくねぇがら、無理して前向ぎなごど言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」

 呑み込んだ言葉やわだかまった思いは最後に解放される。「イサの氾濫」の場面は圧巻である。

 震災に対して、その後の現実に対して、どうしたらいいのか、正解はない。でも、ここで描かれた圧倒的な生の肯定には希望があると思う。

 東北のふどだぢ、読まねばまいね。

 あと併録された「埋み火」がこれまたすごい迫力。おっかない。
「かねんじょ」みたいな人って昔は通学路に必ず一人はいた気がする。そういう「異質な人」が排除された社会になっているのが怖い。


 作者が同い年で同じ青森の出身というだけで手に入れて読んだ。全編生きた八戸の言葉で書かれている。わが故郷弘前とはちょっと違うけど、大きく分類すれば一緒であり、「香り(かまり)」「ずぐなす」とか、ああ、んだんだ、って読んだよ。震災を見事に描いた小説だど思う。傑作だびょん。

 いい話っこだ。

 

2016年3月20日日曜日

ジョナサン・サフラン・フォア 『イーティング・アニマル』

 『ものすごく近くてありえないほどうるさい』のアメリカユダヤ系作家フォアが書いた、食をめぐるルポルタージュ。息子の誕生を機に、何を食べさせるべきかと悩んだフォアは食肉産業の調査をはじめ、ファクトリー・ファーミングと呼ばれる工業式畜産業の実態を知る。まるで工業製品のように豚や鶏が生産され、促進栽培され、ときとして非人道的に屠られ、商品化された肉として安価に販売されていく。結果的にフォアは肉食自体をやめるという選択をする。

 
肉食を続ければ現在の食肉産業を結果的に支持することになってしまう。だからやめるのだ。

 『いのちの食べ方』『フード・インク』といった食に関する映画も見ているし、この問題に定期的に関心が向くということは、ぼく自身もなんかおかしい、いいのかな?と思っているということなのだと思う。しかし、すでに肉食を与えられた世界で生きてきた自分は、フォアのように肉食をやめる気概がない。その困難さを思うと、正しいとは思っても、躊躇してしまう。

 まず、肉の味が好きだ。ステーキが好きだし焼き鳥も好きだ。

 そして、肉食をやめた場合に、ぼくの食事は極端に限定されることになる。たとえば外食先でベジタリアンメニューはまずない。コンビニで買うおひるごはんでベジタリアンなのはサラダや梅干しのおにぎりくらいだ。

 昨年の今頃作家でベジタリアンのエトガル・ケレット(彼はフォアとも友人であり、自分はフォアと違ってpreaching vegetarianではないよ、と冗談を言っていた)と食事したとき、困ったのは店選びで、肉がダメとなるととたんに選択肢は狭まり、どうしたもんか当方に暮れた。結局和風居酒屋で野菜や豆を中心に食べた。これが毎回ではとてもじゃないけどやっていけないな、と思った。

 そのときに率直に「ベジタリアンって大変じゃない?」とケレットに聞いてみた。そのときにことばにこの問題の答えがあるのだと思う。

「ぼくの人生では食べることの優先順位はそんなに高くないんだ」

 自分の生活では食べることの優先順位は極めて高い。どっか知らない土地に行けば地のものを食べたいと思うし、なにかがんばったご褒美にはおいしいものを食べ、食事だけを目的に出かけることもある。ベジタリアンになるということはそういう喜びを放棄することだ。「(うまいものを)食うために生きている」ぼくのような欲深な人間には厳しい。

 ではあるが、フォアのように現実を知ったうえで肉食を放棄するのは、むしろ食べることの優先順位が高いからだろう。優先順位が高いからこそ「正しい」ものを口にしたいしさせたいのだ。

 われわれはみななにかを食べないことには生きていけないわけで、一日3回、毎日選択を突き付けられている。

 肉食をやめられる気はまったくしない(ということは現在のファクトリー・ファーミングを結果的に支持して、環境を破壊し、自分の首を絞めることになるとフォアには言われるのだろうが)のだが、たぶんこの先もずっと気になっていくのだろうと思う。

2016年3月9日水曜日

西加奈子『サラバ!』

 『サラバ!』の最後20ページを残したまま読めずに3日経った。読めずにいるのは、怖いからだ。ばれるのが怖いからだ。ホントのぼくがばれるのが怖いからだ。誰にばれるの?怖いのは、いつだって決まってる。ぼくだ。自分だ。ホントのぼくが、ぼくにばれるのが怖いのだ。それで三日経っても本を閉じたまま見つめている。

 西加奈子の小説を読もうと思って一週間で『きりこについて』、『漁港の肉子ちゃん』、『舞台』、『サラバ!』と読んだ。物語の始まりでグッと読者を引っ掛けて連れまわす、その技の巧みさに感嘆し、でも物語の言いたいことを登場人物が言ってしまうから「解釈の多様性」なんてものはなく、答えはこれでっせ、という読み間違いようもないのならあんまり「文学的」ではないと思った。でも、この人は「わかっている」人であり、ぼくらがわからずにいる、あるいはわかるのにわかりたくないまま目を背けていることを「自分、ちゃんと見なあかんで!」と突きつける人であり、その尊さに比べるなら「文学的」かどうかなんてどうでもいいことで、その言葉で、メッセージで、何かを受け取って救われる人がいるなら、それに勝るものはない。

 歩はぼくだ。歩であることを否定できる人なんていない。だから苦しい。最後の20ページを開くのが怖い。そこにはたぶん、「むきだしのホント」が待っているから。

 わかったつもりで40半ばのおっさんのぼくは「人生ってのは自分と折り合いをつける旅だと思う」なんてことを言っていた。でも、そんなことばは伝わらない。誰にも。でも、それを物語の力でブーストして拡散できるなら、西加奈子がこの小説でしたようにみんなを怖がらせることができるなら、それこそが「文学」の存在意義だと思う。

 ぼくは明日『サラバ!』の最後の20ページを読もうと思う。おっかないけれど読もうと思う。

 

2016年2月29日月曜日

エトガル・ケレット3篇掲載 『波』 3月号

 新潮社のPR誌『波』の3月号に、エトガル・ケレットのエッセイ3篇が掲載されております。「親愛を込めて(でもなく)」「息子のためのヒゲ」「パストラミ」の3篇です。短編小説の時と同じく、ユーモアに富んでいて、そして短く、なのに読んだあとに考えさせられる、ケレットならではの世界が楽しめます。


 続きは4月刊行の『あの素晴らしき7年』で。

2016年2月28日日曜日

第2回姫路城マラソン

 今シーズン最後のフルマラソン、かつ勝負レース。この日のために走ってきたと言っても過言ではない。2012年に1年レースを休んで以来なかなかそれ以前のペースに戻せずにいたのだが、今シーズンはフルこそ(当たらないから)一回しか走っていないが、ハーフや30Kで調整しつつなかなかに走りこめていた。満を持して、という感じでシーズン終盤の勝負レースに臨んだ。

 目標は段階式に
①歩かず完走(これはいけるわ。11月の福知山でも歩かへんかったもん)
②サブ4(これもいけるな。大阪30K、キロ5:30よりはやくいけたしそのペースでいけば4時間切る)
③PB3:41の更新(これはどうか?フル走ってる回数が少ないのが不安だが、この前のハーフでは1:40切ったし、早くなってるんちゃうの?)
④夢のサブ3.5(いやいやいやそれは無理。とかいいながらもしかして?)
という感じ。とりあえずはキロ5:30で最初の10キロ行って、そのあとは調子次第。イーブンでも3:50くらいやし、というプラン。

 5時起床。かやくごはん、野菜ジュース、おはぎ、ヨーグルト、バナナ。6時出発。三宮でJRが早くも遅れているがまあ大丈夫でしょ。
 西加奈子さんの『漁港の肉子ちゃん』を読みつつ行く。たはっ、おもろいわ。この人は小説の最初の方で読者のハートをぐっとつかむのがうまい。肉子ちゃんの漢字の話とか。読み続けていたいのでこのまま電車乗っときたいなあと思うが姫路着。

 すぐに着替えてバナナとアミノバイタルゼリー。整列直前にトイレ。あったかくなりそう。ロンTにウィンドブレーカーといういつもの格好だが、上いらんかもなあ、と思っているころにスタート!

 最初3キロほどはダンゴ。体調は・・・あんまよくない。体が重い。しかしスタート直後は体が重いくらいがいいと聞いたことがある。そのあとはだいたい5:30ペースで走れたのだが、なんだかずっとトイレに行きたい。いやいやスタート前に行ったし気のせいでしょ。でも行きたい。おかしい。途中トイレはあるのだがみな混んでいるので次まで我慢、それを何度か繰り返し9キロ地点でやはりトイレに。出た出た。なんで?

 そのあとは順調。10キロ過ぎたらペース上げることも考えていたが、そんなには上げず自然とキロ5:20から15くらいに。

 17キロくらいで背中が痛み出す。早いなあ。

 そのまま半分を越え30キロ地点くらいで4時間のペーサー集団に追いつく。ペーサーいるの知らなかったし、自分の前にいるとは思わなかった。狭い道で激混みなのだがその合間を「すいませーん」と縫って 華麗に前に出る。これで目に見えてサブ4だな、残り10キロくらいになったらさらにペースを上げちゃおうかしら、なんて思いつつ快調に走る。

 それが・・・34キロくらいからなんだか変。寒気がして太ももが痺れる感じ。あれ?なんかしんどいよ?ペースが落ちていく。キロ6:00近くまで落ちる。むむ、このままではさっきの4時間集団に抜かれる!と思ってすぐ、37キロくらいで抜かれた・・・。

 心が折れた。

 歩いてしまう。それはないと思っていたのに。もう走れない。

 しばらく歩いてはまた走り始めるのだが、足もさることながら、走ると吐き気がして戻しそうになる。内臓がやられているのか。

 ここからは沿道の応援の方の「あと少しがんばって!」に「いや、もうしんどい、やめる!」「あかん、がんばって!」 と笑顔でやり取りしつつ、走り出すたびに「オェッ!」となる。

 最後の1キロさえ途中歩いてなんとかゴール。

 NETで4時間7分。

 はぁ。サブ4もいけないまま今シーズン終了。

 風呂入って肉食うつもりだったがそんな元気も食欲もなく帰る。

 フルは大変やなあ。ハーフなら実際にその距離で練習できるけどフルは無理。そのうえ終わった後ボロボロ。

 果てた。

 肉子ちゃんやったら「田んぼが木に乗ってるのやから!」て言うんかな。

2016年2月11日木曜日

第45回いかるがの里・法隆寺マラソン

 関西に住んでいるのに奈良ってあんまり行かないな、奈良マラソンの時くらいやな、と思っていたところにこのレースの存在を知り、エントリー。タイミング的にも今シーズンの目標レース姫路城マラソンの2週間前でちょうどいい。

 1月のハーフが1時間45分。キロ5分で走った計算になる。今回はできればあと5分削りたい。となるとキロ4:40くらいなのだが、さすがにそのペースで20キロはしんどそう。キロ5分より遅くならないようにしてあと走ってみてから決める、というプランに決定。

 スタートが12時とゆっくりなので早起きの必要がないのが嬉しい。朝普通に起きて普通に朝食食べて9時前に出発。JR六甲道から大阪経由で法隆寺駅まで。清算に並んだりコンビニでおにぎり買ってたらバスが遅くなってしまって、会場到着はスタート40分ほど前。でも余裕な感じ。そこまで参加者が多くないようで着替えも荷物預けもさほど混んでない。

 レース前は11時くらいにおにぎり二つ、スタート前にアミノバイタルのゼリー。

 12時スタート。非常に天気が良く暑くなりそうだったので長袖Tシャツ一枚にしておく。スタート地点で並んでいるときもまったく寒くない。スタートして1キロほどはダンゴ。道が細くしかもジグザグに進んでいくので走りにくい。ただ、前の方だったのでみなさん速く、無理して抜いたりしなくてもOK。

 1キロ越えたら普通に走れる感じにばらける。ただしコースが全体になだらかな登りがだらーっと続いてはちょっとダウン、の繰り返しでなかなかペースがつかめない。たぶんペースを設定してたら無理して合わせようとしていただろうから、てきとーでよかった。

 5キロくらいからアップがなくなり走りやすくなってくる。だんだんペースも上がるし体も軽くなる。

 13キロくらいからはどんどん速くなる感じ。体力が切れる気がしない。ペースも4分40秒台から30秒台へ。

 そのままのペースで踏み続け、最後500メートルくらいはダッシュ。

 タイムは・・・

 ネットで1時間39分28秒!1時間40分を切れた!たぶん自己ベスト。

 ただ・・・ 手元のGPSで見るとどうも距離が短いんだよな・・・ 300メートルほど。

 ま、いっか!


ゴール地点。かなりコンパクト。すぐに完走証がもらえる。
 ゴール後はチップ外してもらってポカリもらって完走証もらってすぐに着替える。無料で豚汁のサービスがあるのだが、これがうんんまい!具だくさんかつ大盛りである。一昨日有馬温泉のバフェで食べた豚汁より断然うまかった。

ちくわも入ってた。
 せっかく来たのだからと法隆寺へ。とにかく天気がいいもんで気持ちいい。
南大門
五重塔
夢殿
 仏像とかお釈迦さまとか見て、そういえばこういう歴史的なもの、けっこう好きだったと思い出す。なかなかいっしょに行ける人がいないので来てなかったけど、たのしい。そして、ここは広ーい。時間がゆったり流れていいなあー。

 レースのあと映画に行く予定だったのが間に合わなかったけど、こっちでよかった。