ゲーテッド・コミュニティのタワーマンションに住む富裕層と、彼らから「野良ビト」と害獣扱いされる川べりの浮浪者たち。格差が可視化された社会は未来ではなく、もうすでにある現実である。労働者が切られて職を失い浮浪者が増える。しかし「スポーツ祭典」の狂騒を背景に人々は「好景気」の虚像に踊り、現実を見ようとしない。不景気を口にするものは罰せられる。持つ者と持たざる者の2極化が進み、持たざるホームレスたちの間でも強者が弱者を食い物にする。
3人称で語られてきたホームレスたちの物語が、終盤で視点が変わる。マイノリティである外国籍のイスラム教徒(でも日本で育った日本人である)をさらなる弱者としていじめるホームレスたちを前に、このホームレス社会のリーダーとなった木下は、「あんたらに食わせるメシはない」と言い、追放を宣言する。そこで視点が入れ替わる。
「そう木下は言ったのだった。ぼくの経験を投影した登場人物である木下は――つまり、ぼくは。あまりに腹が立ったから思わずでた言葉だったけれど、その後味の悪さはいつまでも胸に、舌に残った」
この視点の変化には賛否両論あるだろうと思う。円満な物語世界をなぜ中断するのか、と訝る向きもあるだろう。
しかし、私は、こここそこの作品の肝だと思っている。
木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、差別を批判し社会の歪みを糾す一見「正義」に思える自分の中にも、同じような差別意識、権力をふるいたいという欲望があることに気が付く。
世の中間違っている。それを批判することはたやすい。円満な破たんのない物語世界を描くことで、社会批判をし、悦に入ることだってできる。しかしそれはともすれば、自分を特権的な正義の位置において、社会を「向こう側」へ切り離してしまう行為でもある。でも、その社会の歪みを自分の問題として引き受け、差別する人と同じ心性が自分の中にもあり、ややもすると自分もそうなるかもしれないという内省がなくては問題が解決することはないだろう。
木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、おいおい、自分にもあるじゃないか、そういうとこが、と気づく。そして、先ほどの引用部分は、あたかも、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』というテクストじたいを書く作者木村友佑自身の独白のようにも読めるではないか。もちろん読み進めれば、それを語っているのは木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)なのであり、作者が小説の約束を破って中に登場したわけではない。しかし、引用部分を読む読者にはこの「ぼく」が誰なのか、にわかにはわからない。一瞬作者自身ではないかと思う。
そしてそれこそが私たち読者の意識を揺らがせる。木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)同様に、そしておそらくは作者木村同様に、私たち読者も、自分を見つめ直さなければならない。ホームレスかわいそうだ、それをいじめるこいつらひでえな、と「正義」の側に立つだけではダメなのだ。それが自分とさほど違わない人々なのだという共感に至らなくては意味がないのだ。そして、この語りの変化は見事にそれを実現していると思う。
世の中が不寛容に傾いている。遠くの誰かを自分事のように考えることが難しくなっている。自分とはかかわりのない他者だと思うからこそ人は無関心でいられる。一見それは弱者に目を向けない強者の論理のようにも思えるけれど、強者ばかりではない。弱者だってそうなのだ。「こいつらひでえな」で済ませないために、「自分もひでえのかも」「自分の中にもひでえやつになる可能性はあるじゃないか」に至るために、この小説は読まれるべきだと思う。