フィッツジェラルドやヘミングウェイを育てたスクリブナーズ社の名編集者マックスウェル・パーキンズと夭折した作家トマス・ウルフの関係を描く。ウルフが書きすぎる作家で冗長だったというのは有名な話で、それを刈り込んで読めるようにしたのはパーキンズだというのもアメリカ文学史ではよく出てくる話。最近ではウルフはあんまり読まれない。
印象的だった点をいくつか。
二作目の謝辞をパーキンズに捧げようとするウルフにパーキンズは「やめとけ」と言い、「あなたがぼくの原稿を本にしてくれた」というウルフに「ぶちこわしてしまっているのじゃないかと不安になるよ」と心情を吐露する場面がある。編集者は作家と二人三脚だが、作家に対する注文に説得力を持たすためには迷ってはいけない。自信をもってダメ出ししなくては、作家だって譲れないだろう。しかしその判断は重い。自信を持てないことだってあるだろう。その孤独な判断の重さが出ている場面だった。
パリから帰ったウルフとパーキンズが再会する。30年代のアメリカは失業者であふれかえっている。「ぼくが書くことに意味なんかあるのかな?ぼくが書くものを必要としているのは彼らなのに、彼らは読むことができない」というウルフのことば。そのあとに二人で忍び込んだビルの屋上でパーキンズはこう言う。「太古の時代に人間たちは火を囲んで座っていた。オオカミに襲われるんじゃないかと怖がって。そこで誰かがお話を始めた。みんながこわがらなくてもいいように」。人間は火を使い始めてサルではなくなったとよく言われるが、その火のそばには「お話」があった。それは怖さから身を守るためのものだった。暗い中でも語ることで誰かが救われるかもしれない。そんな文学の役割はいつも変わらない。今も変わらない。
作品が書けなくなってゼルダも精神を病んだのちのフィッツジェラルドが何度か出てくる。そのフィッツジェラルドに対して傲慢なウルフは「お前の小説は短かすぎる」なんて言う。「もう数年書いてないだろ。ちゃんと書け」と。これは切ない。人の痛みの分からないウルフにパーキンズはキレる。 「お前は今日何語書いたんだ?彼はいい日でも100語しか書けないんだぞ!」と。書けなくなった作家なのに、パーキンズはフィッツジェラルドを見捨てない。
だからフィッツジェラルドもその恩を忘れない。のちにハリウッドで脚本書きをしているフィッツジェラルドのもとにやってきたウルフはパーキンズのことを悪しざまに言うが、フィッツジェラルドは「恥を知れ!」と怒る。彼にはgenius for friendshipがあるんだ、お前はそれを裏切った、と。
映画の原題はgeniusで、見る前は「天才」ってのはウルフのこと?あるいは天才編集者パーキンズってこと?って思っていたが、この「才能」のことだったのか。ウルフには作家としての才能がありパーキンズには編集者としての、そして友情の才能があった。geniusの形はひとそれぞれだ。
この場面でフィッツジェラルドが「去年のギャツビーの印税は2ドルちょいだ」みたいに言う場面、これまた切ない。なのだが、死んだ後にも読まれるかどうかが気になるんだ、というウルフに対してフィッツジェラルドは「俺も若いころはそうだった。でも今はただいい文章を書きたいと思っている」と答える。
そして今でもギャツビーは読まれている。なんだかフィッツジェラルドへの愛がある感じ。
いい映画でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿