2010年8月11日水曜日

「外套」

青空文庫でゴーゴリの「外套」を読む。気の弱い役人が外套を新調し有頂天となるが、追い剥ぎにその外套を奪われ、警察に相手にされず、有力者を頼みにするものの逆に不興を買ってしまい、そのショックもあって死んでしまう。そのころから外套を奪う幽霊が出始めた、というお話しである。
主人公の小人物さや仕立て屋の様子など思わず笑みが漏れるコミカルな場面が多い。外套の出来栄えに惚れ惚れした仕立て屋が、後ろから主人公を見送ったあと回り込んでさらに前から眺めるという場面が好きだ。
気になるのはこの主人公の仕事が書類を書き写すことだということ。どうしてもメルヴィルのバートルビーが思い起こされる。バートルビーはたしか1853年くらいで、こちらは1840年の作品。どちらも主人公は書類を書き写す。しかしやがて書類を写すことを停止してしまうバートルビートは対称的に、ゴーゴリの主人公は書き写すこと自体を愛し、もっと面白みのある仕事をという上役の好意に対しても拒絶するほど、そして仕事から解放されて帰宅したのちにも自宅で何かを書き写すほどなのだ。
バートルビーについて語るとき、書写はよく、機械化された創造性のない非人間的作業として扱われるが、むしろコピーすることの喜びみたいなものを考えて見た方がおもしろいかもしれない。

2010年8月10日火曜日

『ヒックとドラゴン』

・ドラゴンのトゥースの造形が素晴らしい。獣のかたちをしながらも愛らしく、最低限の顔の変化で表情を作る。ネコ的な動きを基にしているのか。

 戦いを強いられる社会ではマッチョな強さこそが唯一の価値観で、それを持たないヒックは周囲からの評価も得られないし、父からの評価も得られない。ところがヒックはドラゴンと戦うのではなく共生することにその才を発揮する。ただ「戦うこと」対「手をつなぐこと」の言わば横の対立は解消しても、それは父と子の縦の対立は解消しないっていうのがミソ。
対立する集団同士の争いを「戦わないこと」で解決するというプロットは物語的には難しい。和解だけでは盛り上がりに欠ける。対立していた集団同士の団結を描くには両者の外部にさらなる敵が必要になり、その外敵との戦いを描くということで、そこまで描いてきた「戦わないという解決」を否定することになり、自己矛盾を抱えてしまうからだ。
 この作品もやはりドラゴンとバイキングの外側にさらなる敵が登場し、それはドラゴンたちに対する抑圧者であり、彼に仕えるためにドラゴンはバイキングの食料を奪っていたということで、バイキングとドラゴンの対立のそもそもの原因として、いわば都合よく悪者化される。物語的にこういった「さらなる悪としての第三の他者」が登場するのはしかたのないところ。しかしその戦いの帰結はなかなかうまいと思った。戦いの結果ヒックは左足を失う。これはドラゴンのトウースが左の尾びれ失った姿と重ねあうが、その義足は決して戦争の英雄として称えられるべき名誉の負傷ではなく「戦わないための」戦いという矛盾が生んだ代償だと言えるのではないか。