以前エトガル・ケレットとの
往復書簡を訳したことのあるアラブ系イスラエル人作家サイイド・カシューアの小説を(英訳で)ようやく読んだ。
カシューアはアラブ系のイスラエル人で、ヘブライ語作家であるが、2014年夏のイスラエルのガザ侵攻に伴って高まったアラブ系市民への敵意を憂慮し、家族を守るためにアメリカへの移住を決意する。二級市民扱いをされながらも同化しようとしてきた母国、その母国と作家としての唯一使える言語であるヘブライ語を捨てざるを得ないカシューアの苦境はとてもショッキングなもので、さらには彼の移住先が私もゆかりのあるイリノイ州はアーバナ・シャンぺーンということもあって、私も非常に心が痛んだ。そのカシューアの2010年の小説である。
物語は弁護士として活躍し、裕福な暮らしを誇るアラブ系イスラエル人が、古書店で買った本に挟まれた妻の筆跡のメモを発端に、妻の不貞を疑って事実を突き止めんとする話と、同じくアラブ系イスラエル人であるがもっと恵まれない境遇にあるアミールというソーシャルワーカーが、ユダヤ人家庭の植物状態の男ヨナタンの介護をする話とで交互に進んでいく。
弁護士は裕福だが、同じように裕福なアラブ系ユダヤ人たちとのスノッブな裕福さ自慢に疲れている。最高級の寿司を買ってホームパーティを催し、気取ったディベートをする。本屋に行っても『チーズはどこに行った?』を買うのは恥ずかしく、ヒップな趣味のよさを演出するために古典を買うときは誰かへのプレゼントのふりをするまでに自意識にまみれている(ちなみにそんなヒップな趣味の一例としてイタロ・カルヴィーノとともにMurakamiが使われている)。
アミールの方もまた自意識で身動きの取れないタイプで、ダンスパーティに女性と行ったのを職場の同僚にみられただけで帰ってしまう。そんな彼が植物状態のヨナタンの世話をし、彼の本を読み、音楽を聞き、そして彼の部屋にあったカメラを持ち出す。残されたフィルムに映っていたのはこうなる前のヨナタンの最後の瞬間であった。
アミールはヨナタンの服を着て、ヨナタンになっていく。写真学校に通い、IDを書き換える。ヨナタンの母もそれを止めはしない。ベッド上のヨナタンが消えればアミールは完全にヨナタンとなる。
Passingの問題はアメリカ文学でも黒人が白人としてpassする話(フォークナーのジョー―・クリスマスとか)としてアイデンティティの問題としてよく扱われるテーマであるが、アラブ人がユダヤ人としてそんな簡単に通るものなのか?という疑問が浮かぶ。
物語自体は弁護士の妻の不倫の謎を中心に謎解きのサスペンスで進んでいくので引き込まれるのだが、ただ、このメモにしても、たとえ妻の筆跡であっても必ずしも不倫ではないんじゃないか?古書店で買った本に挟まっていたというのはできすぎではないか?とか多少の引っ掛かりはある。
とはいえ、異国イスラエルの小説で複雑なアイデンティティの問題を扱い、その背景も描かれているのは勉強になった。
そういえばイスラエルのアラブ人社会は描かれるけど、マジョリティであるユダヤ人の世界はあまり描かれていなかったなあ。
二つの物語は、弁護士の章が3人称、アミールの章が1人称と人称を変えて展開する。タイトルはそこに由来するのだろう。二人称単数といえば「あなた」ということだけど、3人称と1人称の間にあって、この話で言えばそれはヨナタンのことか、singularというのは「単数」で、アミールとヨナタンが「ひとつ」になることか、でもindividualの意味もあるから、それぞれ別なのだ、みたいな含意もあるのかな、なんて思った。また読みたい。