2016年10月30日日曜日

『港のひと』



 『港のひと』に「イスラエル製ターディスのアンビな旅」というケレットさんについてエッセイを書かせてもらいました。
 
 とても素敵な冊子です。友人はとおかくんの研究室が出版社「港の人」と組んで手製本で作ったもので、手にとって、触って、読んで、常に嬉しい本です。

表紙の色も違うんだぜ。

 近著『ロケットの正午を待っている』を同社から活版印刷で出したはとちゃんは、「本」の中身だけでなくてモノとしての「本」について、メディアとしての本について真剣に考えて、重版できない活版印刷にたどり着いたのだと思います。普段本が何部売れた、重版になった、やれ増刷だ、みたいな価値観を当たり前に思っていたワタシにとっては、重版できない限られた部数の本を出すという考えは目からウロコでした。でも、それは本当に読みたい人が必死に探し出して入手する本になるかもしれない、手に入れた人が、渡された人が大事にする本になるかもしれない(本人はそんなこと言いませんが)、と思うとその希少性はとても意味があるのではないかと思えてきました。手紙ってそうだったはずで、この本は重版できないゆえに、手紙に近い極めて親密な本になったと思います。ワタシもオフィスでいろんな人に見せているし。テクストがデジタル化されていくらでも無限に複製可能になった今だからこそ余計にです。

 当冊子もそんな親密な感じが詰まっています。参加させてもらってよかったなあと思っています。

 好きな作家の木村友祐さんや後輩の加藤さんとご一緒できたのも嬉しいです。

2016年10月25日火曜日

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

 フィッツジェラルドやヘミングウェイを育てたスクリブナーズ社の名編集者マックスウェル・パーキンズと夭折した作家トマス・ウルフの関係を描く。ウルフが書きすぎる作家で冗長だったというのは有名な話で、それを刈り込んで読めるようにしたのはパーキンズだというのもアメリカ文学史ではよく出てくる話。最近ではウルフはあんまり読まれない。

 印象的だった点をいくつか。

 二作目の謝辞をパーキンズに捧げようとするウルフにパーキンズは「やめとけ」と言い、「あなたがぼくの原稿を本にしてくれた」というウルフに「ぶちこわしてしまっているのじゃないかと不安になるよ」と心情を吐露する場面がある。編集者は作家と二人三脚だが、作家に対する注文に説得力を持たすためには迷ってはいけない。自信をもってダメ出ししなくては、作家だって譲れないだろう。しかしその判断は重い。自信を持てないことだってあるだろう。その孤独な判断の重さが出ている場面だった。

 パリから帰ったウルフとパーキンズが再会する。30年代のアメリカは失業者であふれかえっている。「ぼくが書くことに意味なんかあるのかな?ぼくが書くものを必要としているのは彼らなのに、彼らは読むことができない」というウルフのことば。そのあとに二人で忍び込んだビルの屋上でパーキンズはこう言う。「太古の時代に人間たちは火を囲んで座っていた。オオカミに襲われるんじゃないかと怖がって。そこで誰かがお話を始めた。みんながこわがらなくてもいいように」。人間は火を使い始めてサルではなくなったとよく言われるが、その火のそばには「お話」があった。それは怖さから身を守るためのものだった。暗い中でも語ることで誰かが救われるかもしれない。そんな文学の役割はいつも変わらない。今も変わらない。

 作品が書けなくなってゼルダも精神を病んだのちのフィッツジェラルドが何度か出てくる。そのフィッツジェラルドに対して傲慢なウルフは「お前の小説は短かすぎる」なんて言う。「もう数年書いてないだろ。ちゃんと書け」と。これは切ない。人の痛みの分からないウルフにパーキンズはキレる。 「お前は今日何語書いたんだ?彼はいい日でも100語しか書けないんだぞ!」と。書けなくなった作家なのに、パーキンズはフィッツジェラルドを見捨てない。

 だからフィッツジェラルドもその恩を忘れない。のちにハリウッドで脚本書きをしているフィッツジェラルドのもとにやってきたウルフはパーキンズのことを悪しざまに言うが、フィッツジェラルドは「恥を知れ!」と怒る。彼にはgenius for friendshipがあるんだ、お前はそれを裏切った、と。

 映画の原題はgeniusで、見る前は「天才」ってのはウルフのこと?あるいは天才編集者パーキンズってこと?って思っていたが、この「才能」のことだったのか。ウルフには作家としての才能がありパーキンズには編集者としての、そして友情の才能があった。geniusの形はひとそれぞれだ。

 この場面でフィッツジェラルドが「去年のギャツビーの印税は2ドルちょいだ」みたいに言う場面、これまた切ない。なのだが、死んだ後にも読まれるかどうかが気になるんだ、というウルフに対してフィッツジェラルドは「俺も若いころはそうだった。でも今はただいい文章を書きたいと思っている」と答える。

そして今でもギャツビーは読まれている。なんだかフィッツジェラルドへの愛がある感じ。

いい映画でした。
 

2016年10月23日日曜日

Sayed Kashua, Second Person Singular

 以前エトガル・ケレットとの往復書簡を訳したことのあるアラブ系イスラエル人作家サイイド・カシューアの小説を(英訳で)ようやく読んだ。
 

 カシューアはアラブ系のイスラエル人で、ヘブライ語作家であるが、2014年夏のイスラエルのガザ侵攻に伴って高まったアラブ系市民への敵意を憂慮し、家族を守るためにアメリカへの移住を決意する。二級市民扱いをされながらも同化しようとしてきた母国、その母国と作家としての唯一使える言語であるヘブライ語を捨てざるを得ないカシューアの苦境はとてもショッキングなもので、さらには彼の移住先が私もゆかりのあるイリノイ州はアーバナ・シャンぺーンということもあって、私も非常に心が痛んだ。そのカシューアの2010年の小説である。

 物語は弁護士として活躍し、裕福な暮らしを誇るアラブ系イスラエル人が、古書店で買った本に挟まれた妻の筆跡のメモを発端に、妻の不貞を疑って事実を突き止めんとする話と、同じくアラブ系イスラエル人であるがもっと恵まれない境遇にあるアミールというソーシャルワーカーが、ユダヤ人家庭の植物状態の男ヨナタンの介護をする話とで交互に進んでいく。

 弁護士は裕福だが、同じように裕福なアラブ系ユダヤ人たちとのスノッブな裕福さ自慢に疲れている。最高級の寿司を買ってホームパーティを催し、気取ったディベートをする。本屋に行っても『チーズはどこに行った?』を買うのは恥ずかしく、ヒップな趣味のよさを演出するために古典を買うときは誰かへのプレゼントのふりをするまでに自意識にまみれている(ちなみにそんなヒップな趣味の一例としてイタロ・カルヴィーノとともにMurakamiが使われている)。

 アミールの方もまた自意識で身動きの取れないタイプで、ダンスパーティに女性と行ったのを職場の同僚にみられただけで帰ってしまう。そんな彼が植物状態のヨナタンの世話をし、彼の本を読み、音楽を聞き、そして彼の部屋にあったカメラを持ち出す。残されたフィルムに映っていたのはこうなる前のヨナタンの最後の瞬間であった。

 アミールはヨナタンの服を着て、ヨナタンになっていく。写真学校に通い、IDを書き換える。ヨナタンの母もそれを止めはしない。ベッド上のヨナタンが消えればアミールは完全にヨナタンとなる。

 Passingの問題はアメリカ文学でも黒人が白人としてpassする話(フォークナーのジョー―・クリスマスとか)としてアイデンティティの問題としてよく扱われるテーマであるが、アラブ人がユダヤ人としてそんな簡単に通るものなのか?という疑問が浮かぶ。

 物語自体は弁護士の妻の不倫の謎を中心に謎解きのサスペンスで進んでいくので引き込まれるのだが、ただ、このメモにしても、たとえ妻の筆跡であっても必ずしも不倫ではないんじゃないか?古書店で買った本に挟まっていたというのはできすぎではないか?とか多少の引っ掛かりはある。

 とはいえ、異国イスラエルの小説で複雑なアイデンティティの問題を扱い、その背景も描かれているのは勉強になった。

 そういえばイスラエルのアラブ人社会は描かれるけど、マジョリティであるユダヤ人の世界はあまり描かれていなかったなあ。

 二つの物語は、弁護士の章が3人称、アミールの章が1人称と人称を変えて展開する。タイトルはそこに由来するのだろう。二人称単数といえば「あなた」ということだけど、3人称と1人称の間にあって、この話で言えばそれはヨナタンのことか、singularというのは「単数」で、アミールとヨナタンが「ひとつ」になることか、でもindividualの意味もあるから、それぞれ別なのだ、みたいな含意もあるのかな、なんて思った。また読みたい。

2016年10月17日月曜日

(ちょっとだけ)オープン・ゼミ with 福永信

 甲南大学文学部英語英米文学科の自分のゼミに作家の福永信さんを迎え、(ちょっとだけ)オープン・ゼミを開催しました。昨年は一般公開の講演会でしたが今年はもっと小規模に、親密な感じで、みんなで『星座から見た地球』についておしゃべりする、というのがコンセプトだったので、あんまり大人数にならぬよう、申込制にして(ちょっとだけ)オープンにしたのです。
ねぼけてとぼけたメガネ兄弟ってかんじ。ともに顔がマンガっぽいのか。

  『星座から見た地球』を読んだうえで学生に各組10分間のグループ発表をしてもらったのですが、ワタシの予想をはるかに上回るおもしろ発表の連続でした。先週の時点でリハを披露したグループがすでに相当優秀だったのですがそれに触発されたようで、みんなよく頑張ってくれました。中でも福永さんの「謝辞」をパロって見せたグループのセンスには「やられた!悔しい!」って感じでした。

通常比180%くらいのがんばり

就活で忙しい4年生もがんばった!
福永さんのコメントも懇切丁寧、かつハッと思わされるものが多く、いい感じの相互効果が生まれた気がします。

 書き手を前にして発表するなんてキンチョーして当たり前(ワタシもちょっとだけ発表しましたがキンチョーしました。作品愛が強すぎてプロなのに批評的ではなかった(笑))ななかみんな堂々と上手に発表してて立派なもんでした。

記念撮影
楽しくて時間も忘れてしまい、2時間半の授業のあと、20名ほどの打ち上げで4時間はいたな。福永さんはその間ずっと学生とも気さくに話し、サインをし、進路の相談に乗ってあげたり、ありがたいことです。さすがは秋元ゼミ公認作家であります。


事件は未遂で終わりました。

 昨年ゼミ生にもらった福永&秋元Tシャツを年に一度着る日となったので、これから毎年一回は来てもらおうと決めました。

新たに書き足されたメッセージ

2016年10月9日日曜日

The ピーズ ワンマン at 神戸 太陽と虎

 初のピーズ、ワンマン。





 いいねえ。ロックバンドだよねえ。かっこいいねえ。スリーピースだよ。

 アホの子みたいでカッコイイ!(「アホの子みたいなのに」ではないんだなあ)

 「真空管」「とどめをハデにくれ」 「幸せなぼくら」「サイナラ」「泥船」「東の窓」「底なし」「焼き飯」「生きのばし」。本編で覚えているだけでもこんだけある。全部かっこいいや。発明レベルの言葉がグサグサ来るね。

 「くたばる自由に 生きのばす自由」

とか

 「サイナラも答えも知らない、ぼくらは未来にずれていく、帰れないほうへ」

とか

 「うまくやれなかった、そのぶん、うまく見失うぜ」

とか、いろいろあるんだけど、今日一番頭に残ったフレーズは

 「みすぼらしい、元犬がいる」

である。

 「元犬」とは「現」なんなのか?

アンコールの「三度目のキネマ」から「体にやさしいパンク」、もーサイコー。
そして「でいーね」「まったく楽しいぜGoGo」。

二度目のアンコールは「デブジャージ」「グライダー」「脳ミソ」「Yeah」で大騒ぎ。

知らん間に前に押されて脳ミソ半分取れたわ。

CD買った。
また行く。ぜったい行く。チョー楽しい。

2016年10月8日土曜日

柴田元幸朗読会at神戸グッゲンハイム邸

 柴田元幸先生朗読会atグッゲンハイム邸に仕事辞めたてホヤホヤの元ゼミ生とともに行く。JRで行ったら途中に須磨海浜公園って駅があって「いつの間に!」と驚く。
 
 塩屋の駅って初めて降りた。大江千里に「塩屋」って歌があったような。駅の山側から行くが道が暗くて人気がなくなんだかジブリ映画みたいなノスタルジー。そんな闇の中に現れたグッゲンハイム邸、幻想的である。
 
 神戸市外大の先生方がお揃いなのでなんでやろ?と聞いて見ると、柴田先生、外大で客員教授をされていて、今日もセミナーやって、昨日は関大で講演、明日も外大で小川洋子さん(!)との対談だそう。タフだ!しかしそういう情報はなんで回ってこないのか。

 前に並んでいた方も外大の卒業生だと判明し、3人でキーマカレーを食べつつ色々喋る。若い人は脱サラ同士。

 


 建物がいいんだなあ。天井高いし。

 満員である。さすが柴田先生、集客すごいなあ、っていうのと、神戸、いるんやな、文学の人、文芸の人、本の人、いるんやな、って思った。ふと横を見ると大好きな古本屋、ネコのぶんちゃんでお馴染みのワールドエンズガーデンの店主小沢さんもいてはる。そうなのだよ、行くとこ行ったら本好きはいるんだよね。自分ももっと外出なきゃと思った。大学の中だけじゃなくってね。
 
 朗読って集中して聞かなきゃいけなくって、しかも狭い空間で座って耳をすますってあんまりないことで最初はちょっと息苦しいというか聞いてる方なのに緊張した。それが休憩挟んだくらいから楽になっていく。全部聞き取ろうとしない、わかろうとしない、ただ空間の心地よさと音の心地よさに身をまかせる、それが気持ちいい。

 ぼくらはふだんから欲張りなので、何かを聞いたら面白くなきゃいやだ、笑わせてほしい、何かを知識を得たい、とかそんなことばっかり思っている。でも、今日わかったのは、何も「おもしろい!」とか「発見!」とかなくっても「心地よさ」に身を委ねる時間があることの豊かさ。無理して面白がったりはしゃいだり、刺激を求めなくっても、気持ち良いはある。小さい頃ってこういう時間がいっぱいあったなあ。

 そして文学っていうか、そんな大上段に構えずとも、ことばの力ってこういうことなんじゃないかと思った。わかってもいいしわからなくっても気持ちがよい。今日朗読で聞いたお話は明日には覚えてないかもしれない。それでもいいじゃん、今気持ちよかったんだから。そう思った。

 終演後にこの洋館の庭でテーブルを囲みたむろする人たちは、この心地よさからまだ離れたくないのだ。ワタシもそうだった。が、氏が待っているのでそういうわけにもいかず帰宅。

 いい夜だった。