トモフスキーの新譜のタイトルが『いい星じゃんか!』だと知って最初に思ったのは、「ああ、震災に反応してくれたんだな」という感謝と「にしてもけっこうストレートなメッセージではないか?」ということだった。
2011年3月11日の大震災を受けて、表現する人はみななにかを突きつけられたことと思う。それまでと同じような表現が全部ウソになってしまうような圧倒的な現実を目の当たりにして一体何を表現するべきなのか。表現することじたいに意味があるのか?
ぼくは日本に住むアメリカ文学研究者として論文で表現することを仕事の大きな部分にしていて、それは大きく世間に開かれたポップミュージックや小説の世界とは違って極めて局地的な閉鎖された世界で、普段からそもそもこの表現になんの意味があるのか?と逡巡してしまいがちなのではあるが、そんなぼくだけに、あの震災以降しばらくは論文も書けなくなった。これを書くことになんの意味があるのかわからない、状態である。論文を書いたところで自分以外はだれも喜ばない。「文学研究」という大きな学問体系に多少は貢献するかもしれないが、それにしても家を失い家族を失いおなかをすかせた人がたくさんいる中で、言ってみれば「何の役にも立たない」論文を書くことに意味があると思えるほどぼくは文学研究を信じ切れていないし、それをあえて信じきってみせる精神的強さもなく、むしろ義捐金を送り、目の前の学生相手の講義に力を注ぐことの方が、この事態に多少なりともコミットし、いくらかでも貢献することになるのではないかと思えた。
ポップ・ミュージックはもっと世界に開かれている。誰だって聞く可能性がある。そのシーンで震災以降どんな曲が生まれてきたのか、実はよく知らない。でも、新聞を読むと、たとえば「絆」ということばが最近もてはやされて、あたかも苦境に対して団結して立ち向かうという幻想のよすがのように強調されていて、それはきっと人々が生き抜くためには必要な知恵なのだろうが、その物語はあまりにも現実から乖離しているように思える。もちろんそういった言葉で勇気を持ち、一歩前に進める人が大勢いることも否定しない。長淵剛がやってる活動は素晴らしいし「ひとつ」を聞いて、心強く思う人もいよう。でも、そういう直接的な励ましではなく、震災以降歪んでしまったぼくらの現実認識を的確な言葉で、歌で表現してくれる人はいないか、と思っていた。
1995年には阪神淡路大震災が起こり、オウム真理教の事件が起こった。あのときもぼくは誰かに、この気持ちを言葉にしてほしいと思っていた。95年の事件を言葉にのせて歌にのせてくれたのはスピッツの草野マサムネだったと思う。「運命の人」は97年だったと思うが、あのとき「ようやく誰かが言葉にしてくれた」という思いがしたものだ。「バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日」とスピリチュアルな天啓の場面を折り混ぜながら、オウム的な「無料のユートピア」を「汚れた靴で通り過ぎる」、神様はそんな簡単なものじゃなくて「自力で見つけよう」。「運命の人」もいるかもしれないのだし。震災があって多くの人が亡くなり「悲しいニュースは消えないけれど、もっと輝く明日!」。この歌はあの頃の混沌を、決してむき出しにはしないで、それでも聞いてる人に大事な気づきを与えたと思う。すくなくともぼくはそう感じた。
ただ、それから16年経って起こった今回の震災に関してはもう「もっと輝く明日!」なんて軽々しく言えない。「輝く明日」を信じることがどう考えても困難になってしまった。震災からの復興に加えて原発の問題。放射能汚染の可能性、エネルギーのない中で産業をまわしていくことができるのか?課題は山積である。とても「明日」は輝いてるなんて言えない。
そんななかでのトモフスキーの新譜である。ぼくはこの人は子どものようにシンプルな誰にでもわかる言葉で、思いっきり核心に迫ることを言ってしまう天才だと思っている。前作『大航海』は卒業式の日にゼミ生にあげるCDの定番だったのだが、自身が船長を務める船の乗組員たちへ向けたという設定の「無計画という名の壮大な計画」では、トモフ船長が乗組員たちを「不安か?不安か?」と煽った上でこんな歌詞が出てくる。「心配するな。俺も不安だ」。こんな歌詞書けない。普通「心配するな」のあとには「大丈夫だから」とか「俺がついてるから」と来るのが定石だけどこの人は船長でありながら「心配するな。俺も不安だ」と言ってのける。でも、それでいいんだ、っていう気になれる。あ、そっか船長もみんなも不安だもんね、俺も不安だけどそれでいいんだよね、って。
そして今回の『いい星じゃんか!』である。「いい星」はきっとこの星のことで、「いい星じゃんか!」という言い回しにはまるで自分のふるさとの良さを再発見したようなニュアンスがある。「たいしたことないと思っていたけど、あらためて考えてみたらいい星じゃんか!」みたいな。「じゃんか」という語尾もいい。「いい星だよ」だとただのフラットな感想、「いい星だぜ!」だと無理してる感じ。それが「じゃんか」だと発見とともに呼びかけのニュアンスが生まれてくる。
まず一曲目が「文句言わない」。
突然始まったことなんだ
なんとなく終わったって文句言わない
なんとなく始まったことなんだから
なにが「終わる」のかは明示されていないけれど、きっと「この世界」でありこの「いい星」のことなんだろう。
あの震災、津波で破壊される町の様子、そして原発の建屋が吹き飛ばされた映像を見て「世界の終り」が見えた気がした人は多いはずだ。「ああ、もうだめだ。世界は終わってしまうんだ」。あれから1年経っても、まだその思いは残っていて、むしろ終わりのなかを生きている感覚さえある。その感覚がたぶんトモフにもあるのだろう。そしてそこで示されるのは「文句言わない」というきわめてカジュアルな態度に込められた達観である。あきらめじゃない、そういうもんなんだ、という認識である。始まっていたことじたいがなんとなくなんだから、おわるのも別にたいしたことではないのだよ。ありうる話じゃんか。だから
こんな日に終わったって文句言わない
あんな日に始まったことなんだから
いつ終わるかわからない、だから一日一日を大事に生きよう!なんてことはトモフは絶対言わない。そんなこと言う必要ない。ただ、今日終わることだってあるかもよ、それでも文句言わないのさ。これすごいなあと思う。慌てふためいているぼくらの現実認識をギュッと引き下げて、そもそも「あるべき」と思っている世界じたいなんとなくできてきたんだからいつなんとなく終わっても文句言えないよ、と弛めてみせる。ああ、そうだな、ぼくも「文句いわない」よって気になる。
そんな「文句言わない」達観の世界だからこそ、人間はいろいろ肯定して生きていくべきで、だから9曲目の「人間」では人間の欲望を「腹ぺこ」の一語に集約して全面的に肯定して見せる。「ガツガツすんの否定みたいなトイレの日めくり真に受けちゃヤバイぜ 人間なんだから」。仮想敵はもちろん「にんげんだもの」な相田みつをであろうが、別に相田みつをに特定してるわけじゃなく、数多のそのフォロワーたちによってつくられた今の世の中の風潮全体に釘を刺してくれているのだと思う。ぼくらは腹ぺこだから(いろんな欲望でいっぱいだから、満たされない欲望がいっぱいだから)寄り道して偶然を食べて生きていく。だっておなかを満たしたいし、いったん満たしてもそのうちまたおなか空いちゃうんだもの。だから、欲望否定するのは不健康で不自然。木や花じゃないんだ。おなかがすくんだ。欲望オッケイ!なんである。
そしてタイトルチューンの「いい星じゃんか」。これはもう詞だけで説明要らない。
ひんやり交差点 なんだか寝そべった
無意味な僕を見下ろすのは まだ無意味な信号機
凛とした空気と遊ぶ 彼はヒトを選ばない
早起きにも朝帰りにも 優しい
いい星じゃんか いい星じゃんか
神様もちゃんと目を覚ませば
いい星じゃんか いい星じゃんか
いやなコト どっかに消えれば
いい星じゃんか いい星じゃんか
神様に期待なんて しなければ
いい星じゃんか いい星じゃんか
見えるものだけを 見ていれば
太陽が昇り、沈み、星が空に見える。また明ける。この星の表面にいるぼくら、空を見つめる。きれいだよ。いい星だな、たしかに。
そして最後の「こころ動け」。
こころ動け
動けこころ
まわれ
転がれ
動け
「いい星」はもしかしたらなんとなく終わっちゃうのかもしれない。そうなっても「文句言わない」くらいの気持ちでいよう。でも、そうなったとしても、「いい星」が回らないなら、転がらないなら、「こころ」を回して転がせばいいんだ。
これ以外にもふざけた「誰かがポテトを持ち込んでいる」とか、月を探しに言った男の情景が目に浮かぶ「SOX」とか名曲ぞろい。個人的には「SOX」で、勝手にネコに「SOX」って名前つけてソーセージあげて「おんなじ「ソ」がつくきっと気に入るだろ」なんて言ってるのは、近所の公園のネコを「キーロ」と名付けて呼びよせて甘えさせて喜んでいる自分とまったく同じだとか、「最強」の「二度目の幼少期」とは中年の危機をむかえたぼくのようなおっさんにはこれまた発見で「一度大人を経験している子供は強いぜ」の通り、これからは二度目の幼少期のつもりで生きよう、とかいろいろ気付かされてしまった。
最後にもうひとつ大事な点。ジャケットのSOXと思しきネコのイラストが素晴らしい。
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