小説が描くのは震災後の八戸で、将司が言うようにそこは被災地とはいえ「一人しか死んでない」。もっと大きな被害を受けたところと比べたらまだマシであり、将司は思わず父親に「被害者面するな」と言ってしまう。
でありながら、自分は東京で繰り返される「がんばれ東北」という無責任な言葉にも嫌悪を感じ、上っ面だけの言葉で自分の良心を肯定してあとはきれいさっぱり忘れてしまえる人々を憎む。
身の置き所もなければなにか行動を起こすこともできない。ただただ違和感を胸にわだかまらせているだけなのだ。
表紙 |
冷遇されてきた東北の歴史、そしてそれがメンタリティに書き込まれ、惨状を訴えることもなく声を飲み込むばかりの東北の人々が見事に描かれている。被災者なのに「東京の人にお荷物だと思われてはいないか」と心配する小夜子に。角次郎の次の言葉に。
「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されたわげだがら、余計厄介なんだどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたくねぇがら、無理して前向ぎなごど言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」
呑み込んだ言葉やわだかまった思いは最後に解放される。「イサの氾濫」の場面は圧巻である。
震災に対して、その後の現実に対して、どうしたらいいのか、正解はない。でも、ここで描かれた圧倒的な生の肯定には希望があると思う。
東北のふどだぢ、読まねばまいね。
あと併録された「埋み火」がこれまたすごい迫力。おっかない。
「かねんじょ」みたいな人って昔は通学路に必ず一人はいた気がする。そういう「異質な人」が排除された社会になっているのが怖い。
作者が同い年で同じ青森の出身というだけで手に入れて読んだ。全編生きた八戸の言葉で書かれている。わが故郷弘前とはちょっと違うけど、大きく分類すれば一緒であり、「香り(かまり)」「ずぐなす」とか、ああ、んだんだ、って読んだよ。震災を見事に描いた小説だど思う。傑作だびょん。
いい話っこだ。
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