2016年6月12日日曜日

円城塔さんの『あの素晴らしき七年』評(『朝日新聞』 6月12日)

 『あの素晴らしき七年』の書評、朝日新聞に載りました。作家の円城塔さんによるものです。(リンクはこちら
 
 これを読んでの感想が複数の方から届いたのですが、いずれも「日本人は海外で「日本人であることを恥じているか」と問われることもない」という部分に違和を感じ、他者の抱いているイメージから逃れられないのは、ユダヤ人やイスラエル人だけではなく、すべての人に当てはまる普遍的なものであり、この本も 「特殊」な国家や民族の話ではなく「普遍」的なものとして読んだ方がいいのでは、ということを伝えてくれていました。

 それはそのとおりで、我々はみな他者から付与されるステロタイプなイメージからは逃れえないし、人はえてして国家とかエスニシティという属性から個人を判断しがちで、それはユダヤ人やイスラエル人に限った話ではないでしょう(とは言っても、ユダヤ人に理不尽にも科せられたスティグマに比するほどのアイデンティティの暴力的な否定は、他の人はなかなか経験することのないものだと思いますが)。

 なんだけど、この反応がおもしろいなと思ったのは、「特殊」としての読みと「普遍」としての読みが、そのままこの本の奥行きの広さを表していると思ったからです。

 海外のある書評がケレットの作品は「ターディス」だ、って評していて、これワタシとても好きな名書評で、当初帯にも推薦したんですけど、ちょっと説明が必要で難しいですよねって話になりました。 ターディスってイギリスの『ドクター・フー』ってSFドラマに出てくる次元超越移動装置で、外見はちっちゃなポリスボックスだけどなかが広くていろんなとこ行けると。で、ケレットさんの作品ってまさしくターディスで、なりは小さいけど中身がでっかく、しかもなんか次元が歪む(笑)。

 なので、ある国と民族のspecificな話として読もうと思えば縦にいくらでも伸びるし、もっとuniversalなものとして読もうとすれば横にもびよーんって伸びる。ちっちゃななかにそういう無限の伸縮性がどの方向にもあるってのがスゴイところではないかと思うのです。


 で、そういう「普遍」的なものとして読んだ方がいいよ、という反応を引き起こして読者に考えさせた(そしてワタシも朝から考えた)という点でも、この円城さんの書評はとても優れた書評だと思います。表面をなぞって紹介するにとどまらない踏み込んだ書評だからこそ、読んだ人が反応した。


 もうひとつ思うのは、円城さんがケレットさんの「特殊」な立場に思いを馳せるのは、やはり同じ作家という立場にあるからではないかということです。昨年の来日時にイベントで対談しているというのもありますし、円城さんは人としてのケレットさんを知っている。そして、ときとして民族や国家を背負わされ、国に帰れば自国の人からも非難されかねないケレットさんの立場を、同じく作家として世界にたった一人で言葉だけをもって対峙する立場にある円城さんは深く共感したのではないかと思うのです。円城さんやほかの多くの日本の作家が書いたものが自国や日本語で出版されず外国でだけ出版されるという事態はたぶんないでしょう。それだけに、そういう選択をしたケレットさんの「特殊」な状況に思いを馳せるのではないかと思うのです。


 だからこその最後の文章です。「それでも、ケレットの理知的で強靭な精神は笑いを忘れることがない」。ケレット一流の笑いの背後にある「理知」と「強靭」さを円城さんは正しく読み取っている。そこでは「特殊」から出発しながらわれわれみなが「普遍的」に知っておくべき知恵に到達しているのではないか。
 

 最近よく思うのですが、だんだんギスギスしてきた世界や社会のなかで、大事なことは、自分の身の回りの集団に向ける愛や寛容さと同じように、はるか遠くの名も知らぬ誰かに思いを致すことなのではないかなと。特殊であって普遍でもあるこの本はそういうことも気づかせてくれます。

 さすがのターディス、いい本だなあと改めて思ったのでした。

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