ずっと買ったまま読まずにいたのだが、はやくも次のSunset Parkが出てしまったので、ようやくInvisibleを読む。
Brooklyn Folliesの書評で"postmodern pageturner"ってのがあって、うまいこと言うな、と思っていた。オースターの良さはまさにその通りである程度のポストモダンな感じ、実験性はありながらも、通常「ポストモダン小説」と言って思い起こされる小説たちより、はるかに読みやすい、いや読みやすいというより読んで楽しい、読まずにいられない、くらいに読者を引っ張るその物語としての面白さにあるのだと思う。本作もいったん読み始めたらぐいぐい引き込まれた。コロンビア大学のブッキッシュな学生Adam Walkerが客員教授のBornとその恋人Margotと出会い、文芸誌出版の話を持ちかけられる。60年代のコロンビア大、詩を書く主人公、『ムーン・パレス』みたいな自伝的小説なのかな、と思っていると主人公の身に突然の事件が起こる。
ここでまずはひとひねり。次の章で、ここまでの物語がAdamから送られてきた原稿だと明かされる。そして、それを読んだ外側の語り手としての作家Jimが登場する。ここで我々が没入していた物語の信ぴょう性が一段階低められる。ん?これはホントの話なの?それとも創作?
コロンビアの同期生であったJimは40年も会っていなかった友人から届いた原稿を読み、彼と会う約束をする。そして続きが書きすすめられないというAdamにちょっとしたアドバイスを送る。視点を変えて自分を客観的に見てはどうか?と。自分は一人称で書いて行き詰った時、そのinvisibleになってしまった自分を、三人称で書くことによって解決できたんだ。
ここで次のひとひねり。新たに届いた原稿として作品内で展開されるAdamの手記はなんと「二人称」で書かれているのだ。なつかしいJay McInerneyのBright Lights, Big Cityと同じ、自分への語りかけである。このあたりでもう「うーん、やられたなあ」と感心することしきりである。
原稿は残されたが書き手は死んでしまう。死んで原稿を誰かに託すのはオースターおなじみの仕掛けで、『鍵のかかった部屋』も『ミスター・ヴァーティゴ』もそうだった。原稿を再現しているのは託されたJimであり、彼は原稿に手を加えている。Adamの手記には姉との関係に関するショッキングな記述があるが、姉本人はそれは事実と違うと言う。どちらが本当なのかは分からない。Jimが書き加えていないとも言い切れない。そもそもInvisibleという作品自体がフィクションなはずなのに、読者はどこまでが事実で誰が嘘をついているのかわからず、それが気になってしょうがない。Bornが起こした事件の真相もわからない。彼自身がフィクションのアイディアとして語る2重スパイの話、その結果仲間を殺さなくてはならなくなったという話を、Cecileは事実ととらえる。自分の父を交通事故を装って植物人間にしたのはこの男だ、と。しかし真相はわからない。最後までわからない。
Adamの手記を出版したいがそのままでは実在する人物(あるいは自分?)を傷つけてしまうと考えたGwynは、これを書きなおして人名や場所を変えて出版すればいいという。しかも著者はJimとして。Bornも自分の秘密を本にしようとCecileに持ちかけ、それをCecileの名で出版することを提案する。
オースターは作者とはなんなのかということに強い関心を持っている作家である。ぼくらは作家とは一人の統一した人格を持った主体であると信じて疑わない。批評理論が「作者の意図」をいくら殺しても、それでも「作者」は厳然と存在していて、一群のテクストはその生みの親である一人の人間にその源をもつと信じて疑わない。でも本当にそうなのか?本の表紙にのっている名前が一緒でも、書いた人はホントは違うかもしれない。Adamの手記はJimの名前で出版されるかもしれないし、だとすれば一番外側の箱であるPaul Auster著Invisibleも、ホントはぼくらの知っているオースターではない人が書いたのかもしれないではないか。
そういうことを考えさせてくれるオースターの作品はやはりおもしろい、
と思っている自分もやはり「作者」の存在を信じ切ってそれにとらわれてしまっているのだが。
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