2013年8月14日水曜日

『風立ちぬ』

 これは詩だと思った。

 主人公二郎の人生には震災が起き、結婚があり、妻の病があり、戦争があり、そして死がある。エンジニアとしての夢を追うことと妻との生活、どちらを選ぶべきか。飛行機へ傾けた情熱は美しいがそれは戦争の道具ともなった。幸福なのかそうじゃないのか。そういった対立にこの作品は一切答えを出さない。人生の転機となるような出来事のそのたびに葛藤がなかったはずがない二郎のその心理を極力描かないことで、生きることのありさまをむき出しに提示している。どうするのが正解なのかはわからない。ここにはわかりやすい教訓やメッセージはない。しかし「生きる」というのはそういうことではないか。「生きる」ことじたいがそうであるように、この物語の膨大な空白は見た者がそれぞれに埋めればよいのだろう。 

2013年8月4日日曜日

『失踪者たちの画家』

 ポール・ラファージ著『失踪者たちの画家』(柴田元幸訳)を読む。

 「幻想的」とはこういうのを言うのだろうか。全体的にぼわーっとしてて細部がよくわからない。いつ・どこの話なのかもよくわからない。
  ジェームズとフランクという二人組の男性が出てきて3人姉妹と出会う。ジェームズはその一人と駆け落ちしてしまう。フランクのお金を持って。となると読者 の興味からいって、普通このジェームスの行方をたどるお話になりそうなものだが、そうはならない。フランクはお金がなくなったことを気にしないし、ジェー ムズは気づいたら戻ってきている。
 フランクはプルーデンスという女性を好きになり、彼女の写真撮影について行く。しかしプルーデンスはいなくなってしまう。失踪者となってしまうのだ。フランクは彼女を探すが、これも見つけることはない。フランクはなぜか逮捕されたり、裁判で自分を告訴してみたりする。
 物語の展開が常に予測を裏切って脱臼していくような印象。不思議な小説だ。

  プルーデンスは死体の写真を撮り、警察に報告する。その写真は「死」があったことの証拠となる。フランクは絵を描くが、絵で死体を描いてみたところでそれ は証拠にはならない。だから写真でできることが絵ではできない。その一方で、フランクは失踪者たちの絵を描く。探している人から聞いた情報をもとに人を描 く。いないいひとを描くのだ。これは写真には出来ない。

 というように、「あること」「ないこと」、「あることがないこと」「ないことがあること」のお話ではないかと思った。

 There is nothing.

と 言った時に、そこには「なにもない」のか、はたまた「なにもない」状態が「ある」のか?このブログのタイトルもそうだ。On the road to nowhere は「どこにも行かない」のか「どこでもない場所」に「行く」のか?そういう「不在」が「存在」することをめぐるお話ではなかろうか。

 プルーデンスの写真は「存在する(ある)」死体を写す。しかし死体はモノとしては存在しても命が「ない」。フランクは「いない」人々を描く。しかし彼らはここにいないだけであって、どこかには「存在する(ある)」。事態は複雑だ。

そもそもの小説という技法じたい、「ない」ものを「ある」かのように書くものだということを思い出した。