2016年12月27日火曜日

木村友佑 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

  「社会派」というひとことで片づけては失礼だろうが、今の日本を地べたの視点からとらえる作家である。『イサの氾濫』では震災のあともわだかまる東北の人の心を描いた。今作は貧困と格差の問題である。

 ゲーテッド・コミュニティのタワーマンションに住む富裕層と、彼らから「野良ビト」と害獣扱いされる川べりの浮浪者たち。格差が可視化された社会は未来ではなく、もうすでにある現実である。労働者が切られて職を失い浮浪者が増える。しかし「スポーツ祭典」の狂騒を背景に人々は「好景気」の虚像に踊り、現実を見ようとしない。不景気を口にするものは罰せられる。持つ者と持たざる者の2極化が進み、持たざるホームレスたちの間でも強者が弱者を食い物にする。


    3人称で語られてきたホームレスたちの物語が、終盤で視点が変わる。マイノリティである外国籍のイスラム教徒(でも日本で育った日本人である)をさらなる弱者としていじめるホームレスたちを前に、このホームレス社会のリーダーとなった木下は、「あんたらに食わせるメシはない」と言い、追放を宣言する。そこで視点が入れ替わる。

 「そう木下は言ったのだった。ぼくの経験を投影した登場人物である木下は――つまり、ぼくは。あまりに腹が立ったから思わずでた言葉だったけれど、その後味の悪さはいつまでも胸に、舌に残った」

 この視点の変化には賛否両論あるだろうと思う。円満な物語世界をなぜ中断するのか、と訝る向きもあるだろう。

 しかし、私は、こここそこの作品の肝だと思っている。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、差別を批判し社会の歪みを糾す一見「正義」に思える自分の中にも、同じような差別意識、権力をふるいたいという欲望があることに気が付く。

 世の中間違っている。それを批判することはたやすい。円満な破たんのない物語世界を描くことで、社会批判をし、悦に入ることだってできる。しかしそれはともすれば、自分を特権的な正義の位置において、社会を「向こう側」へ切り離してしまう行為でもある。でも、その社会の歪みを自分の問題として引き受け、差別する人と同じ心性が自分の中にもあり、ややもすると自分もそうなるかもしれないという内省がなくては問題が解決することはないだろう。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、おいおい、自分にもあるじゃないか、そういうとこが、と気づく。そして、先ほどの引用部分は、あたかも、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』というテクストじたいを書く作者木村友佑自身の独白のようにも読めるではないか。もちろん読み進めれば、それを語っているのは木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)なのであり、作者が小説の約束を破って中に登場したわけではない。しかし、引用部分を読む読者にはこの「ぼく」が誰なのか、にわかにはわからない。一瞬作者自身ではないかと思う。

 そしてそれこそが私たち読者の意識を揺らがせる。木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)同様に、そしておそらくは作者木村同様に、私たち読者も、自分を見つめ直さなければならない。ホームレスかわいそうだ、それをいじめるこいつらひでえな、と「正義」の側に立つだけではダメなのだ。それが自分とさほど違わない人々なのだという共感に至らなくては意味がないのだ。そして、この語りの変化は見事にそれを実現していると思う。

 世の中が不寛容に傾いている。遠くの誰かを自分事のように考えることが難しくなっている。自分とはかかわりのない他者だと思うからこそ人は無関心でいられる。一見それは弱者に目を向けない強者の論理のようにも思えるけれど、強者ばかりではない。弱者だってそうなのだ。「こいつらひでえな」で済ませないために、「自分もひでえのかも」「自分の中にもひでえやつになる可能性はあるじゃないか」に至るために、この小説は読まれるべきだと思う。

2016年12月26日月曜日

カワイオカムラ展覧会『ムード・ホール』at @KCUA



 魚を捕ってもヘコヒョン・・・

ヘコヒョンが頭の中にとりついているのでヘコヒョンを見ないように努めているのだが、見ないように見ないようにとすればするほど視界の隅のヘコヒョンが気になる。「その行為自体がヘコヒョンであろうが!」と頭の中のヘコヒョンに言われた気がし、「ヘコヒョンとは私自身のことか、なあんだ、よかったね」とやりすごしてみたが、慰めにもならない。

数週間前にシングルレコードジャケット大の謎冊子が送られてきて、なんだろう?と中を見てみるとカワイオカムラというアーティストの展覧会のフライヤー、なかのライナーノーツのような文章の署名は「福永"スーパースター”信」とある。作家の福永信さんである。へんてこなことばかりしている人だが、今度は"スーパースター"になったようで「スーパースターか、いいなあ」とため息。
なつかしのシングルレコードのジャケットサイズ

いよいよ'スーパースター’にまでのぼりつめたようだ  
 どうも展覧会会期中に映像ライブがある模様。なんだか面白そうなので京都まで行ってみることに。スーパースターも用があるというので待ち合わせることになる。

 日曜でクリスマスである。どことなく人々が浮かれている気がする。お昼に一人でステーキを食べに行ったら昼からワインでいい感じになった兄ちゃんが知らないおばあさんの勘定を「払っといたから」と大盤振る舞い。「酔っぱらって気が大きくなっている」とも、人に親切にする「クリスマス精神」とも取れよう。

 JRに乗っていざ京都へと向かうが、どうも時間を読み間違えたっぽい。新大阪で、これは約束の時間に間に合わないと判断し、新幹線を使うという手に。機転を利かしたつもりだったが、新幹線のきっぷ売り場が長蛇の列。なんだよ。シンデレラ・エキスプレスか!

 30分遅れて会場に到着。福永さんは私の遅刻にも動じない落ち着き。スーパースターらしい。一緒に展示を見る。

 事前にフライヤーを見ていたので「この人たち絶対プロレス好きですよね」と聞いてみる。だって、ロード・ブレアーズって名前があちこちに出てくるもの。PWF会長で全日のタイトルマッチではいつも名前を耳にしていたロード・ブレアーズ。顔は覚えていない。『四角いジャンル』は『四角いジャングル』からだろうし。やはりプロレス好きだそうで期待が高まる。

 「AMAZON」「スーパースター」 、そして動画作品の「コロンボス」。刑事コロンボみたいな人がいてロード・ブレアーズが射殺される場面がスローモーションで展開される。その隣に分割された画面ではコロンボが遺体を空中浮遊させたかと思ったら降ろしたり。でもコロンボ1人じゃなくってもう一人いる。よく見るとこの対になった二つの世界は対角になっていて、さらにもう二つ、計四つの世界があるようにも見える。最初に倒れていた遺体は女性だったけどあれはなんだったんだろ?理解しようとするけど結局わからない。今もわからない。

この構造は新作の「ムード・ホール」のダンスしている部屋の絵にも共通していて、左側の絵と右側の絵の両方で二人の男がダンスに興じており、同じ部屋を別の面から見ているのか?(そのうえさらに別の角度から見ていると思わしき絵画が右の部屋にかかっている)と思うのだけれど、だとすると片方にだけいる人だとかプールみたいに見える水の部分とかの違いが説明がつかない。不思議。不可解。

次の「ヘコヒョン・ドリル」。ここから観客はヘコヒョンに取りつかれることになる。ここで流れるナレーションのテクストがいいのだ。正確には再現できないのだけれど、「虚」の「実」と「実」の「虚」、その二項対立がお互いをウロボロスのように食い合った状態?なのかなあ?fictionの地底が盛り上がってできた、なのかなあ?謎がどんどん増殖していく。ヘコヒョン自体がわからないし、「ヘコヒョンにならなければいけない」とか「魚を捕ってもヘコヒョン」とかどんどんぐるぐるになっていく。ヘコヒョンだけでなくその周辺でも周到に、意味を確定させないテクストが張り巡らされている。リングを見守って大声を上げるのは「としちゃん」。名前になんらかの意味があるのか?なんで「としちゃん」?とか思っていると、「組み合う3人の男を見ながら」って、リングの上は普通4人か2人であって、なんで3人?「時間ないぞー!なんの時間だっけ?リアル元年か」。試合のタイムアップを間近にして叫ぶ「としちゃん」の声援の意味がまたしても横滑りされていく。

ナンセンス!

「ヘコヒョン」は盲点みたいなもので、「ある」けど見えなくって、そこにはなんでもあてはめることができる。「文学」とか「アート」とか「プロレス」とか。でもどれとも確定することはできない。だって「ヘコヒョン」だから。あーおもしれー。

「虚」の「実」と「実」の「虚」はまさにプロレスがそうで、見えている現象は「虚」なのか「実」なのかわからない。そのたたかいはリアルに見えても(リアルファイトとは違うという意味で)フェイクなのだ、ともいえるし 、フェイクに見えてもリアル以上に失敗が許されないリアルな部分もある。骨が折れたってshow must go onなのだから。そしてそれを見守る観客たちの中にも「虚」と「実」がないまぜになる。どこまでいってもどっちかには確定できない。観客はそのぐるぐるをまるごと受け止めるしかない。

夜には映像ライブがあってご本人たちも登場してライブで作品を見ることができた。「コロンボス」をまた見たけど、やはりわからない。「わからないでいいのだ」とも言えるけど、考え続けなきゃおもしろくない。意味は鑑賞してる方が作るのだから。

新作の「ムード・ホール」の箱庭的な入れ子の世界はこれからもっと広がっていくようなので楽しみ。そして私はやっぱり「ヘコヒョン」である。

あーおもしれー。

魚を捕ってもヘコヒョン・・・

スーパースターたちと
1月にもまたライブがあるという。また行こう。

詳しくはこちら。






2016年12月24日土曜日

第28回加古川マラソン

 忙しいのと寒いのとで練習不足なのではあるが、やってきた今年の最終レース、加古川マラソン。初参加。フラットなので記録が出やすいと聞いたことがある。とはいえ今のワタシは記録を狙えるような走力ではないのであまり気合も入らない。
 朝6時半起床、7時20分出発。バスで三宮行って新快速。加古川は近い。しかし駅でトイレを待って外に出てみるとバス待ちの人が長蛇の列。この時点で9時くらい。スタート集合が9時25分でスタートが9時40分。これ間に合うの?初の遅刻不出走か?と焦る。会場着いたらすぐ着替えて並べるよう、並びながらシューズにチップを付けて、シャツのゼッケンもつける。

 バス乗って10分くらいでついてすぐさま着替えて荷物預けてスタート位置へ。なんとか間に合う。ほっ。

 天気は曇り。雨ではないし暑くもないのでむしろちょうどいい。

 今回は練習不足の自覚があるので、キロ6分のイーブンペースを目指す。サブ4なんて言わない。

 それが、スタートしたらなかなかに好調。しんどくない。キロ5分50とか40くらい。5分30まで上がったらジチョ―ジチョ―とおさえる感じで進む。10キロオッケー。酒饅頭を食べる。水分がないと大変なのでエイドで立ち止まって30秒くらいかけてストレッチもしながらのどかに食べる。まんじゅうはうまいのだが、しかしあとから思ったのは、走る前に十分食べてるし、10キロで饅頭食べんでもいいわなあ、ってこと。

 20キロも快調。これは前回の神戸よりも軽快な走りだなあ。

 30キロもオッケー。この時点で2時間50分くらい。ということは・・・ここからの12キロをペースアップしてキロ5分で行ければ、4時間?サブフォー?とちょっと甘い夢を見てみる。

 しかし、やはり、このくらいから足が重くなってくる。32キロでトイレへ。朝出なかったのが今頃になってやってきた。

 そこからだんだん落ちて行って34キロくらいで川の上の橋を渡ると、風が冷たいのなんのってもう。そして橋渡って35以降、ずーっと向かい風。しかも冷たい。腰に巻いていたウィンドブレーカーを着こむ。さみー。

 踏んでも踏んでも進まない。歩く。

 ここからがしんどかった。前回の神戸より早く歩いてしまったことになる。んああ。

 結果4時間22分。

画像に含まれている可能性があるもの:2人、立ってる(複数の人)、空、屋外
伝統の「チーム文学部Tシャツ」を誇示するK


 うーん、もう4時間切れる気がしない。減量とストレッチ、あとビルドアップ走もして2月のレースに臨みたい。

 レース後は同僚の新居でお風呂とピザをいただく。素敵な街に素敵なお家であった。

2016年12月6日火曜日

ハシケン at ムジカジャポニカ

1人でぶらりとライブに行くのが最近の楽しみ。お酒飲んでいい音楽聴いて、ってのが一番。今日は大阪でハシケンat ムジカジャポニカ。


初めてハシケンを聞いたのはまだ院生で東京で一人暮らしをしていた95年だと思うのでもう20年にもなる。当時鈴木慶一とYouが司会のゑびす温泉って勝ち抜きバンド番組があって、それに登場したハシケンを聞いて頭がブッとんだ。「グランドライフ」って曲で、なんちゅうか人類の歴史と世界全体が見えたような感じで、スゴイなああって思って、デビューCD買って修論書きながらずっと聞いてた。

大スターにはなんなかったけど、その後もずっとアルバムが出れば買い、20年聴いてきた。そして20年経って初のライブ。

よかった。

この人の歌は目を閉じて聞くといい景色が見えるときがあるんだ。今日はいい景色、いっぱい見れた。「限りなくあの空に近い」「凛」「感謝」「テーゲー」よかった。

終わってからちょっとだけ喋った。「ゑびす温泉から」って話をしたら「長いなあ」と照れてはった。いい歌をありがとうございますと感謝を伝えて帰りました。

金曜に同じ会場でプチ鹿島の漫談ライブがあるという。行きたいなあ。どうしよっかなあ。