2016年3月20日日曜日

ジョナサン・サフラン・フォア 『イーティング・アニマル』

 『ものすごく近くてありえないほどうるさい』のアメリカユダヤ系作家フォアが書いた、食をめぐるルポルタージュ。息子の誕生を機に、何を食べさせるべきかと悩んだフォアは食肉産業の調査をはじめ、ファクトリー・ファーミングと呼ばれる工業式畜産業の実態を知る。まるで工業製品のように豚や鶏が生産され、促進栽培され、ときとして非人道的に屠られ、商品化された肉として安価に販売されていく。結果的にフォアは肉食自体をやめるという選択をする。

 
肉食を続ければ現在の食肉産業を結果的に支持することになってしまう。だからやめるのだ。

 『いのちの食べ方』『フード・インク』といった食に関する映画も見ているし、この問題に定期的に関心が向くということは、ぼく自身もなんかおかしい、いいのかな?と思っているということなのだと思う。しかし、すでに肉食を与えられた世界で生きてきた自分は、フォアのように肉食をやめる気概がない。その困難さを思うと、正しいとは思っても、躊躇してしまう。

 まず、肉の味が好きだ。ステーキが好きだし焼き鳥も好きだ。

 そして、肉食をやめた場合に、ぼくの食事は極端に限定されることになる。たとえば外食先でベジタリアンメニューはまずない。コンビニで買うおひるごはんでベジタリアンなのはサラダや梅干しのおにぎりくらいだ。

 昨年の今頃作家でベジタリアンのエトガル・ケレット(彼はフォアとも友人であり、自分はフォアと違ってpreaching vegetarianではないよ、と冗談を言っていた)と食事したとき、困ったのは店選びで、肉がダメとなるととたんに選択肢は狭まり、どうしたもんか当方に暮れた。結局和風居酒屋で野菜や豆を中心に食べた。これが毎回ではとてもじゃないけどやっていけないな、と思った。

 そのときに率直に「ベジタリアンって大変じゃない?」とケレットに聞いてみた。そのときにことばにこの問題の答えがあるのだと思う。

「ぼくの人生では食べることの優先順位はそんなに高くないんだ」

 自分の生活では食べることの優先順位は極めて高い。どっか知らない土地に行けば地のものを食べたいと思うし、なにかがんばったご褒美にはおいしいものを食べ、食事だけを目的に出かけることもある。ベジタリアンになるということはそういう喜びを放棄することだ。「(うまいものを)食うために生きている」ぼくのような欲深な人間には厳しい。

 ではあるが、フォアのように現実を知ったうえで肉食を放棄するのは、むしろ食べることの優先順位が高いからだろう。優先順位が高いからこそ「正しい」ものを口にしたいしさせたいのだ。

 われわれはみななにかを食べないことには生きていけないわけで、一日3回、毎日選択を突き付けられている。

 肉食をやめられる気はまったくしない(ということは現在のファクトリー・ファーミングを結果的に支持して、環境を破壊し、自分の首を絞めることになるとフォアには言われるのだろうが)のだが、たぶんこの先もずっと気になっていくのだろうと思う。

2016年3月9日水曜日

西加奈子『サラバ!』

 『サラバ!』の最後20ページを残したまま読めずに3日経った。読めずにいるのは、怖いからだ。ばれるのが怖いからだ。ホントのぼくがばれるのが怖いからだ。誰にばれるの?怖いのは、いつだって決まってる。ぼくだ。自分だ。ホントのぼくが、ぼくにばれるのが怖いのだ。それで三日経っても本を閉じたまま見つめている。

 西加奈子の小説を読もうと思って一週間で『きりこについて』、『漁港の肉子ちゃん』、『舞台』、『サラバ!』と読んだ。物語の始まりでグッと読者を引っ掛けて連れまわす、その技の巧みさに感嘆し、でも物語の言いたいことを登場人物が言ってしまうから「解釈の多様性」なんてものはなく、答えはこれでっせ、という読み間違いようもないのならあんまり「文学的」ではないと思った。でも、この人は「わかっている」人であり、ぼくらがわからずにいる、あるいはわかるのにわかりたくないまま目を背けていることを「自分、ちゃんと見なあかんで!」と突きつける人であり、その尊さに比べるなら「文学的」かどうかなんてどうでもいいことで、その言葉で、メッセージで、何かを受け取って救われる人がいるなら、それに勝るものはない。

 歩はぼくだ。歩であることを否定できる人なんていない。だから苦しい。最後の20ページを開くのが怖い。そこにはたぶん、「むきだしのホント」が待っているから。

 わかったつもりで40半ばのおっさんのぼくは「人生ってのは自分と折り合いをつける旅だと思う」なんてことを言っていた。でも、そんなことばは伝わらない。誰にも。でも、それを物語の力でブーストして拡散できるなら、西加奈子がこの小説でしたようにみんなを怖がらせることができるなら、それこそが「文学」の存在意義だと思う。

 ぼくは明日『サラバ!』の最後の20ページを読もうと思う。おっかないけれど読もうと思う。