2016年3月9日水曜日

西加奈子『サラバ!』

 『サラバ!』の最後20ページを残したまま読めずに3日経った。読めずにいるのは、怖いからだ。ばれるのが怖いからだ。ホントのぼくがばれるのが怖いからだ。誰にばれるの?怖いのは、いつだって決まってる。ぼくだ。自分だ。ホントのぼくが、ぼくにばれるのが怖いのだ。それで三日経っても本を閉じたまま見つめている。

 西加奈子の小説を読もうと思って一週間で『きりこについて』、『漁港の肉子ちゃん』、『舞台』、『サラバ!』と読んだ。物語の始まりでグッと読者を引っ掛けて連れまわす、その技の巧みさに感嘆し、でも物語の言いたいことを登場人物が言ってしまうから「解釈の多様性」なんてものはなく、答えはこれでっせ、という読み間違いようもないのならあんまり「文学的」ではないと思った。でも、この人は「わかっている」人であり、ぼくらがわからずにいる、あるいはわかるのにわかりたくないまま目を背けていることを「自分、ちゃんと見なあかんで!」と突きつける人であり、その尊さに比べるなら「文学的」かどうかなんてどうでもいいことで、その言葉で、メッセージで、何かを受け取って救われる人がいるなら、それに勝るものはない。

 歩はぼくだ。歩であることを否定できる人なんていない。だから苦しい。最後の20ページを開くのが怖い。そこにはたぶん、「むきだしのホント」が待っているから。

 わかったつもりで40半ばのおっさんのぼくは「人生ってのは自分と折り合いをつける旅だと思う」なんてことを言っていた。でも、そんなことばは伝わらない。誰にも。でも、それを物語の力でブーストして拡散できるなら、西加奈子がこの小説でしたようにみんなを怖がらせることができるなら、それこそが「文学」の存在意義だと思う。

 ぼくは明日『サラバ!』の最後の20ページを読もうと思う。おっかないけれど読もうと思う。

 

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