2014年6月2日月曜日

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』

 60年代NYを舞台に売れないフォークシンガーの旅を描く。

 ルーウィンは「ダメ」な男だけれど、それを断罪するわけでも肯定するわけでもない視点が心地よい。ルーウィンは一発逆転もしないし破滅もしない。でも生きてる。

 シカゴへの自動車での旅、真っ暗で視界の先に何も見えないフリーウェイ、どごんどごん、どごんどごんと道路の継ぎ目が規則正しく伝えるあの眠気を誘うリズム、分岐したフリーウェイの出口の先には闇の中に突然現れる明かりのかたまり。ラスベガスかと見まごうばかりに輝くそのかたまりも、下りてみればほんの小さな町の明かりである。あたりになにもないから輝いて見えただけ。スモール・タウンってこういうのだよなあ。

 それにしても、猫が一匹そこにいるだけで映画にはこれほどに動きができるものなのだな。ギターを片手に抱えたヒゲ面のルーウィンはもともとあんまりクールな感じじゃないが、その空いた手にネコを抱えるだけでなんとも可笑しい絵が出来上がる。抱えられたネコは両手を前方に突き出してこれまた可笑しいのだが、これはネコが意図してやっているわけではなく、胸を抱えられた状態では肉体の構造上こうならざるをえない。でも、この絵だけでやられる。こいつ絶対悪いやつじゃないなって思っちゃう。

 『ハリーとトント』のトント、近所の丸山公園でよく遊んでくれたキーロという名の(っていうかワタシが勝手に名づけた)黄色ネコを筆頭に、フィクションでも現実でも「黄色いネコは人がよい」というのはわがやの定説なのだが(そういえばこの映画も『ハリーとトント』もロードムービーだ)、この映画の黄色ネコユリシーズくんもご多分にもれず人がよい。カウチで居候しているルーウィンを起こしに来る場面は微笑ましく、ルーウィンとNYの地下鉄に乗ってダウンタウンへと向かう車窓に夢中になっている様子にはネコ特有の抜群の集中力が見られ、車両内で飛び出した時には見てるこっちは心配でたまらない。

 実際にはユリシーズくんだけでなく同じ見た目の黄色いネコが3回出てきて、それぞれ別のネコなのだが、別でなくても一緒でもどっちでもいい。ルーウィンはユリシーズを見失ったあと幸運にも彼を路上で発見したが、実際にはそれは別のメス猫だと判明する。扶養責任のない野良ネコなのだから、本当は旅に同行させる必要はない。でも連れて行く。そしてシカゴへの旅の途中、置き去りにする。そして帰路で同じような見た目の黄色いネコを轢いてしまう。だが、NYに戻ると、飼い主のもとに自力で戻って来たユリシーズくんと再会することになる。3匹の別々の、しかしながらみな黄色いネコが、ルーウィンの旅につねに顔を出す。

  人のよい黄色いネコはきっとずっとルーウィンと一緒にいたのだ。それぞれ別々の個体だとしてもだ。轢かれようが迷子になろうがまた現れる。

 ネコには9つの命があるというではないか。
 
 人のよい黄色いネコに守られたルーウィンもまた、9つの命を持つのかもしれない。だからルーウィンもまだ生きていく。