2010年12月24日金曜日

クリスマスのホームパーティ



初の試み、うちでゼミのクリスマスパーティを開催。12人も入るかと心配だったがけっこう余裕だった。買い物、料理など準備で奥さん大変だったけど、みん な「おいしいおいしい」といっぱい食べてくれてよかった。料理はチキンとラザニア、マッシュポテト、ワカモレ&チップス、サラダだったが、もっとあっても よかったかも。でもデザートのケーキもあったしちょうどかな?
 こういうときに役に立てない私ではあるが、今回はジェローとワカモレとフルーツパンチをつくった。パンチはけっこう好評で、うれしい。
 サンタさんの格好の子もいたし、プレゼント交換もしてたのしい日なりました。ホームパーティってのも楽しいもんだなあ。またやりたい。

2010年12月15日水曜日

『ノルウェイの森』

 村上春樹の小説は映画に向かないと思っていた。あの無機質でつるんとした臭いのない世界は、どうしようもなく画面に細部が入り込んでしまう映像メディアとは食い合わせが悪く、やるならアニメーションしかないのではないかと思っていた。もう20年以上そう思っていた。この映画を見るまでは。
 映画はまぎれもなく『ノルウェイの森』であった。今までの映画化された村上作品の中でもベストだろう。実写映像=リアリティというわけではないのだ。
 綿密につくりこまれた60年代の景色、セッティング、ファッション。しかしそれは厳密には60年代そのものではなく、おそらくは意図的に多少ずらされたもので、ただの「なつかしい」過去ではなく、ある意味村上世界と同じ程度に現実感を失った空間であった。過去なのだが古臭くなく、身も蓋もない言い方をすれば「貧乏臭くない」。
 永沢さん役の人、この人はおそろしくきれいな顔をしていて、おそろしくぴったりした服を着ていて、いわばこの人がこの映画の世界を象徴していると思った。実写であっても美形でそろえればそこからリアリティの臭いは消え、村上作品の世界は再現できる。

 主演二人の演技もよかった。菊池凛子の直子のいまにもこわれそうなあやうさ。松山ケンイチはクールさと愛らしさと、そしてなんといっても「とまどい」を遺憾なく表現していた。自殺したキヅキとの関係を、直子が歩きながら告白する場面。言葉を絞り出すために歩みを速めていく直子と、足元をとられながらもそれに必死でついて行くワタナベ。そのとまどいの表情。印象的な場面だ。
 全体的におそろしく静かで、人物たちの距離が近くて、息苦しいほどであったが、心地悪くはない。それが不思議である。

 ただ、こうやって小説に(あくまでも私的にだが)忠実な映画化作品を見て思うのは、村上春樹の世界は、現実の世界の大部分を構成している凡百の「さえない人」を排除することで作られているのだなあということである。ワタナベは親友を自殺で亡くし、その恋人直子を亡くし、大きな喪失や悲しみを抱える。とはいっても、それはこうやって劇化されうるいわば「かっこいい」喪失や悲しみである。しかし現実の世の中にはそんなかっこいい喪失や悲しみではなく、もっと泥臭く情けない喪失や悲しみを抱える人がいっぱいいる。どちらがいいとか悪いではないが、今の自分が共感を感じるのは圧倒的に後者である。

 見終わった後奥さんと話していたとき「この話ってやっぱり喪失の物語だから・・・」と言うと「え、再生の物語でしょ?」と言われた。みんなどっか欠けていてそれを間違った組み合わせで必死に埋めようとしている物語に思えるのだが、そこに彼女は再生を見ている。同じように、ワタナベのことを「巻き込まれ型」と評した僕に対して奥さんは「受け入れ型」だと言った。視点の違いは男と女だからだろうか?

2010年11月27日土曜日

不惑



不惑っていうのはこういうことなのか、笑ったよ
たしかにもう迷えないや

選択肢は消えた    
 ---TOMOVSKY

もうすぐ40歳を迎える。子供のころに考えた40歳に自分は似ても似つかず、全然しっかりしていないし、あいかわらず落ち着きなく浮ついているし、子供っぽい。
TOMOVSKYの言うように選択肢は消えたのかというと、そうでもなくてまだまだ人生変えようと思えば変えられそうな気がしている自分はアホなのだろうか。

それはそうとゼミで学生が祝ってくれた。いい学生たちだ。感謝。ケーキとマグカップをもらった。奥さんも喜んだ。

2010年11月25日木曜日

福知山マラソン

今シーズン二回目のレース。
福知山って篠山のちょっとむこう、くらいに思っていたが実はかなり遠いことが判明。神戸からマラソン用のバスも出ているのだが気づいたときには締め切り済み。がーん。10時半のスタートに間に合うには大阪5:55発のJRに乗らなくてはいけない。しかも各停。しかも2時間以上。これは是が非でも座らねば。
 前日は京都嵐山に行っていたのだが、奥さんが気を遣ってはやく寝させてくれたので、無事4:20に起床。タクシーで六甲道。始発に乗る。始発の電車って久しぶりだが、酒臭いのだな。人が。
大阪で乗り換えて無事座席確保。ほっ。
福知山に着くと無料のシャトルバスがばんばん出ていて、これは便利。会場は着替えの体育館が混みすぎだった以外は快適。

肝心のレースは・・・
最初の10キロはダンゴ状態なんでゆっくりだったが、10キロくらいから調子が出てきて15キロくらいからはキロ5分10秒くらいのペースに。いやあ、バテるんだろうなあと思っていたら20キロ過ぎても足取り軽く、スイスイと追い抜いていく軽快な走り。今までにない感覚。あれー、これいけちゃうんじゃない?
その後37キロくらいまで快調ペース。そこから少しずつ落ちていって、最後の5キロはやはりむちゃくちゃしんどかったが、今回は初めて一度も歩くことなく完走!3時間52分の快挙である。念願のサブ4!本格市民ランナーの仲間入りである。

一月前に一回フルを走っていたのがよかったのか。レース前までバカバカ食べたのがよかったのか(おにぎり3個、パン一個、栄養バー的な物3本)。いやあ地道な努力で脚が育っていたってことでしょうな。

次は最後まで快調に走るのが目標。3時間30分を目指そう。

2010年11月21日日曜日

ポール・オースター『オラクル・ナイト』

ポール・オースター『オラクル・ナイト』の新聞用書評を書きました。共同通信のお仕事なので全国の地方紙に配信されるそうなのですが、どれにいつ載るのかわからずにいたところ、今日の神戸新聞に載ってました。秋田では先週出ていたようです。青森とか東京は出るのかなあ。
見つけたら読んでみてください。
2003年末か4年の頭、アメリカ滞在中に原書で読んですっかり忘れていたのを、今回翻訳が出て読みなおしてみたら、当初の印象よりおもしろい気がしました。これに続くTravels in the ScriptoriumとかMan in the Darkのことを知っているから、そのつながりが見えるからかもしれません。
最近のオースター氏は精力的で、最近はSunset Parkが出たし、その前のInvisibleも去年だったので、矢継ぎ早に新作を出している印象があります。えらい。

2010年10月21日木曜日

トラットリアからオルタナティブな思想を考える

 奥さんの誕生日だったのでうちからほど近いイタリアンレストラン、トラットリア・レットへ。行くのは初めて。ご夫婦二人だけでやっていて、変わっているのが、ディナーは一日3組しか受け付けないってことである。今回はあらかじめ予約して、シェフのお任せコースでおねがいした。予約の時点で苦手な食材を聞いてくれる。

 最初のむらさきいものスープに始まり、ハマチのカルパッチョの前菜、温かいスズキの前菜(ブロッコリーのソース)、ホロホロ鳥の自家製パスタ、鰆のパンチェッタ包み、短角牛のグリルまで、すべてがおいしかった。ちゃんとした素材を丁寧に調理している。あまりにソースがうまいので、パンにつけて全部きれいに食べた。奥さんの誕生日だということは伝えていたのだが、妻のデザートは皿のまわりにHappy Birthday! の文字が入ったスペシャルバージョン。ダージリンのプリンがうまかった。

 2時間半くらいかけてゆっくり味わわせていただきました。

 聞くと、以前はアラカルトもやっていたのだが、料理を出すペースが間に合わなくてせっかく来てくれたお客さんをがっかりさせることが多く、今の3組限定の形に変えたのだそう。

 感銘を受けた。

 お客さんは来てくれる。しかし料理の回転が間に合わない。こういうときにたいていの店がとるのは、料理の手間を省いてでもすぐ出せるものに切り替えて回転をよくする、必要であれば人を雇ってでも供給を追い付かせる、という方法であろう。
 実際多くの飲食店はいかにコストを抑えて大量に回転させることで儲けを生むかで苦心している。その結果ぼくらは、コストを抑えた得体のしれない材料でつくられた、冷たいお皿に乗った無味乾燥な料理を、大急ぎでかっこんで店を後にすることになる。それが市場経済の原理だと言えばそうなのだが、この店はあえてその道を取らずに、納得できるものを納得できる形で提供するために、お客の数の方を減らしたのである。経済のロジックに背を向けたのだ。これはなかなかできないことだと思う。
 というのも、3組限定だったら一晩の売上げの上限が決まってしまうではないか。多くの飲食店はその売り上げを少しでも昨日より「成長」させようと躍起になっている。そういう姿勢とは対照的な哲学がこのお店にはあるのだ。
 もっともっとと売上を伸ばすのではなく、納得できる料理を作り、提供することを優先する。その志の高さにいたく感動した。

 出てくる料理はすべて手間暇かけたもので、温菜であればきちんとお皿は温められているしカトラリーは皿ごとにちゃんと換えてくれる。料理が出てくるのがゆっくりなので、こちらも一皿ずつゆっくり味わうし、会話も弾む。
 毎日こういう食事をとるわけにはいかないけども、本来食事ってただのエネルギー補給じゃないはずで、こうやってていねいにつくっていただいたものをていねいに食べさせてもらったとき、食事ってのはある種の儀式と言うか、生きていることの核心に迫るような幸せな体験になるのだと発見した。

 と同時に「独自の経営戦略で事業拡大」みたいなことのみを良しとする今の市場競争社会のありかたはとても馬鹿らしく思え、それに流されることなくしっかりと自分たちの哲学を持ってお店を営まれている二人のしなやかな強さを応援したくなった。ごちそうさまでした。ありがとう。

2010年8月11日水曜日

「外套」

青空文庫でゴーゴリの「外套」を読む。気の弱い役人が外套を新調し有頂天となるが、追い剥ぎにその外套を奪われ、警察に相手にされず、有力者を頼みにするものの逆に不興を買ってしまい、そのショックもあって死んでしまう。そのころから外套を奪う幽霊が出始めた、というお話しである。
主人公の小人物さや仕立て屋の様子など思わず笑みが漏れるコミカルな場面が多い。外套の出来栄えに惚れ惚れした仕立て屋が、後ろから主人公を見送ったあと回り込んでさらに前から眺めるという場面が好きだ。
気になるのはこの主人公の仕事が書類を書き写すことだということ。どうしてもメルヴィルのバートルビーが思い起こされる。バートルビーはたしか1853年くらいで、こちらは1840年の作品。どちらも主人公は書類を書き写す。しかしやがて書類を写すことを停止してしまうバートルビートは対称的に、ゴーゴリの主人公は書き写すこと自体を愛し、もっと面白みのある仕事をという上役の好意に対しても拒絶するほど、そして仕事から解放されて帰宅したのちにも自宅で何かを書き写すほどなのだ。
バートルビーについて語るとき、書写はよく、機械化された創造性のない非人間的作業として扱われるが、むしろコピーすることの喜びみたいなものを考えて見た方がおもしろいかもしれない。

2010年8月10日火曜日

『ヒックとドラゴン』

・ドラゴンのトゥースの造形が素晴らしい。獣のかたちをしながらも愛らしく、最低限の顔の変化で表情を作る。ネコ的な動きを基にしているのか。

 戦いを強いられる社会ではマッチョな強さこそが唯一の価値観で、それを持たないヒックは周囲からの評価も得られないし、父からの評価も得られない。ところがヒックはドラゴンと戦うのではなく共生することにその才を発揮する。ただ「戦うこと」対「手をつなぐこと」の言わば横の対立は解消しても、それは父と子の縦の対立は解消しないっていうのがミソ。
対立する集団同士の争いを「戦わないこと」で解決するというプロットは物語的には難しい。和解だけでは盛り上がりに欠ける。対立していた集団同士の団結を描くには両者の外部にさらなる敵が必要になり、その外敵との戦いを描くということで、そこまで描いてきた「戦わないという解決」を否定することになり、自己矛盾を抱えてしまうからだ。
 この作品もやはりドラゴンとバイキングの外側にさらなる敵が登場し、それはドラゴンたちに対する抑圧者であり、彼に仕えるためにドラゴンはバイキングの食料を奪っていたということで、バイキングとドラゴンの対立のそもそもの原因として、いわば都合よく悪者化される。物語的にこういった「さらなる悪としての第三の他者」が登場するのはしかたのないところ。しかしその戦いの帰結はなかなかうまいと思った。戦いの結果ヒックは左足を失う。これはドラゴンのトウースが左の尾びれ失った姿と重ねあうが、その義足は決して戦争の英雄として称えられるべき名誉の負傷ではなく「戦わないための」戦いという矛盾が生んだ代償だと言えるのではないか。

2010年7月22日木曜日

『借り暮らしのアリエッティ』

コロボックルものって、まあだいたいおもしろいもんだ。サイズ的な対比だけでも観客の興味が引ける。この映画もそういうおもしろさはあったが、そこまで強調されてはいない。むしろこびとナメの人間の世界の描写が平面的というか、あまりこびととの対比を感じさせない印象。
小さな人の小さな冒険のお話。小さな世界から出て行くところだったので、これから大きな冒険か?と思ったところで終わってしまってちょっと物足りなかった。映画の世界観はよかったから、長さはこの倍あってもいいくらいだったのに。
男の子とアリエッティの関係の深まり加減が適度でよかった。恋愛感情とかそういうとこまであえて行かせないのがよかった。
あと、ネコの描写がめちゃくちゃうまい。そうそうネコってそういう動きするなあ、って思った。

2010年6月30日水曜日

『クレイジー・ハート』

タイトルからだとなんの話か全くわからないが、作中で歌の歌詞に出てきてじーんときた。
落ちぶれたカントリー歌手の話。『レスラー』にも共通するダメ男もの。とにかく酒、タバコ、汗。アメリカ南西部の乾いた空気感にこのやさぐれた感じが合う。
最後はハッピーエンドではないが再生の物語で『レスラー』より救いがある。

音楽がよかった。役者が演じているのに演奏や曲がかっこいい。これはすごいことだと思う。映画の中で「名曲」っていう設定でも、聞いて全然そう感じられずに気持ちがさめるっていう場合が多いから、音楽ものの映画は難しい。でも、これはかっこよかった。

カントリーミュージックってアメリカでもある一定の社会層のもので、だから都会のインテリとかはこの映画見てどう思うのか?そもそも見ようという気になるのか?というのが気になった。

主人公が地元に帰って親友のバーに行く場面。従業員はメキシコ人のヘスス一人。「仕事終わったら英語教えてやるからな」なんて言っている。このヘススを主人公に紹介する時、名前は?と聞くと違う名前を言っている。まあどっちでもいいさ、と言っておっさん同士肩を組んでいる場面がちょっと長めのショットになっている。なんのことかよくわからないのだが、このシーン笑えたし、印象に残った。

2010年5月2日日曜日

『マーク・トウェイン 研究と批評』


去年のシンポで発表させてもらったのをまとめた原稿が出ました。
短くするのに苦労したけど、自分の論文というのは周縁的な情報が多くて核心部分の説得力が低いのが問題だと反省。

2010年4月4日日曜日

美術館

京都近代美術館へ行ってきた。紙幣を使ったアートの展示があるというので関心を持ったのだが、赤瀬川源平の千円札とか森村泰昌の作品はまえにもどこかで見たもので、J.S.G.Boggsのような衝撃的な作品はなかった。ああやって紙幣をモチーフにした作品を複数並べると発想の奇抜さではなくその類似に目が行ってしまう。
ほかの展示も多数あるのでひととおり見るが、昔なら面白いと思ったであろう現代美術にもなんだか抵抗を感じる。「アイディアと思い付きだけ」なかんじでしんどかった。表現する必然性が希薄というか、自己満足が透けて見えるというか。逆に思わず声が漏れてしまうような「きれいな絵」が見たいという素朴な欲求を感じた。
しかし京都はあちこちで桜が咲いていてきれいだったなあ。

2010年3月27日土曜日

韓国

昔書いた原稿の2次使用稿料が突然入った。そういえば韓国で翻訳が出ると聞いていたような。自分が書いたものが韓国語になるのは2回目である。しかし、以前はアメリカの作家について書いたガイド本だったし、あえて「日本語で書かれたアメリカ作家についての本」を翻訳せずとも、韓国で同様の本を誰かが出版したほうが話が早そうなのであるが。日本語からの翻訳がブームなのだろうか。韓国の出版事情が気になってきた。

2010年3月25日木曜日

卒業式

卒業式で泣かないと、冷たい人といわれそう。

2010年3月23日火曜日

KAN芸能生活23周年記念逆特別ライブツアー「ルックスだけでひっぱって」

尊敬しているミュージシャンであるKANさんのバンドツアー、神戸公演に行ってきた。
KANさんの音楽を知ったのは比較的最近で、2003年に1年アメリカで暮らした時のことだ。日本から取り寄せたCDの一枚がGleam & Squeezeだった。なんでKANさんのCDを取り寄せたのか、はっきりした理由はない。なんとなく気にかかっていた、という程度だったのだと思う。しかしその歌詞とメロディーは当時の私の心境になんだか妙にマッチして、アメリカでの理想と現実のはざまであたふたしている自分と同じ境遇を感じた。「完ぺきを求めて岸壁に立っている」という「子羊」は自分の歌だと思ったし、「close to me」には励まされた。「カラス」を聴いて、この人もいろいろ思い悩んでいるのだなあと思い、その後、彼がこのアルバムを最後にフランスに移住したことを知る。

その後私もKANさんも帰国して、KANさんは活動を再開、私は彼のCDを集め、弾き語りライブに行くようになる。そして今回が初のバンドライブ参加。

オープニングの「ディスコ‘80s」からビカビカの衣装とアフロで踊りまくるKAN。素晴らしい。演奏して、歌って、踊って、そのうえこの人はほんとうにおしゃべりがうまい。おもしろい。真面目な顔して変なことばっかり言っている。「ワーペロ」とか。そういうふざけずにはいられないところも自分に似ている。でも、照れ隠しのおふざけではなくて、本気でふざけられるのが彼のプロフェッショナルなところだろう。じゃないと恵比寿・スレプリーなんてできない。

今回のツアーは各地で特別ゲストがいるのだが、神戸のゲストはなんと平井堅であった。グランドピアノの上に登場した時のスターのオーラったらなかった。ファンになった。かっこよかった。アンコールという名の本篇も含めて3回も登場してくれた。

3時間を超えるライブ。もう大満足であった。
逆特別は次は6年後の29周年までないはずなので、行けてほんとによかった。

素数というとオースターの『偶然の音楽』を思い出す。素数には神秘的な力があるのだという。登場人物の二人組は素数の組み合わせで宝くじを当てる。

ここにも素数に魅せられた男がいるというのがなんとなく可笑しい。6年後にまた神秘的な力を目撃したい。

2010年3月9日火曜日

『フローズン・リバー』

最初のカットからやられる。足元からクローズアップで上っていくカメラ。足首の小さなタトゥーからタバコを持つ指先、その爪の汚れ、化粧っ気のない女性の素顔。貧しさの表現が秀逸。トレーラーハウス、1ドルショップ、アメリカ人がよく着ているColumbiaかなんかのパーカ。
 非常に丁寧に作られている印象を持った。貧しさゆえに女たちは罪を犯す。行為は犯罪である。法的には裁かれるべき罪である。しかしその犯罪は誰も傷つけることのない「犯罪」であり、「罪」ではない。 最終的には犯罪は露見するが、でも悲しい結末にはならない。女性同士のゆるやかな連帯の物語。
 『バグダッド・カフェ』を思い出した。あそこまでハッピーな連帯ではないけれど、ここにも女性同士のゆるやかな連帯の物語があり、未来が、希望がある。
 人は人種や国境や貧富や性差やいろんなもので分かたれている。みえないボーダーがある。同じ町に暮らしていて顔を合わせていても決してお互いが見えることはない。しかし両者を隔てている川が凍ったら・・・そのとき人はひとときだけその境界を渡ることができ、見えなかった他者に本当の意味で出会う。川の象徴性が見事。

2010年3月5日金曜日

ブログ考

ブログを作ってもらったのでなにか書こうと思うが、どういった立ち位置で書くべきなのかわからない。mixiの日記は知り合いに向けてのものだし閉じた空間ならではの安心感があるが、ブログってのは大げさにいえば「世界に向かって発言」するツールだ。思わぬ人が読む可能性もあるわけで、個人的な情報とかはどのくらい開示するべきか?なんてことも悩む。そもそも何で書くのか?も。自己顕示欲?
世間ではツイッターが流行っているっていうのに、いまだそういう自意識にとらわれる自分というのはなかなか前時代的なのであろうか。
まあよくわからないので、やりながら見つけていこうと思う。

タイトルはDamien Riceの歌詞から。
「どこにも行かない」のか「どこでもないところに行く」のか。
nowhereに向かってあらためて、発進。

2010年3月4日木曜日

ブログ発進(発信)!!

つくってもらったよ。おくさんに。