映画『華麗なるギャツビー』を見てきた。バズ・ラーマンの映画は色彩、ダンス、音楽がどぎつくアクが強いので、変な映画になってんじゃないかと思っていたが、そんなでもない。いいとこも悪いとこもあるってかんじ。
原作と違うところがいろいろあって、まず大きいところでは語り手のニックの「その後」が書かれていること。今や療養施設に入所していて、そのメンタルな不調の治療のために、「書くこと」を医者から勧められ、そして書き起こしたのがこの物語である、と設定されているのだが、「ん?これ『ライ麦畑』と間違えたの?」と思った。ニックはホールデン?
結末もニックがギャツビーの物語を書き終えて「Gatsby」とつけたタイトルの上にThe Greatというのを書き足し、そのGreatという形容は、ニックによるものだということになっている。ギャツビーがGreatだとすれば、それはやはりニックの視点から見てだろうから、ここはおもしろいと思った。ただ、字幕の訳が、そして映画のタイトルが「華麗なる」ギャツビーとなっているのだが、ギャツビーに共感し、その一夏を回顧するニックがギャツビーに付与するGreatという形容が「華麗なる」なのはちょっと違和感。たぶんここでのニックは、思い返して「ギャツビー、あんたやっぱりすげえ人だったよ」という感じであり、「あんた華麗だったよ」とは思わないんではないか。
ギャツビーとトムの対決するプラザホテルの場面で、トムはギャツビーの素性を暴いた上に「俺たちは生まれからして違う」と階級意識をむき出しにするが、これは原作にはない点。さらにそれを聞いてギャツビーが激高して殴りかからんとするのも原作にはない。ただ、この場面を含めて、この映画のギャツビーは感情豊かで、デイジーとの再会場面での緊張してドギマギしている感じは多少コミカルだけど、小説ではニックの語りでしかわからないので冷静な印象のギャツビーも、本当はこうなのかもしれないなあ、時計も落としてたしなあ、と納得。そしてこういうちょっと愛嬌のあるギャツビー役にディカプリオははまっていると思った。
ウィルソンに殺される場面で、デイジーから電話があったことを匂わせる演出、トムがデイジーから真実を聞いていたと思わせる場面、葬式の場面や後日ニックがトムやデイジーと再会する場面がないことなどはこの映画ならではの解釈。ギャツビーの過去は、死後父親の話から知ることになるはずが、この映画では生前にニックに直接話している。「ずっと誰かに話したかった」みたいなセリフもあったな。ギャツビーという別の自分を作り出して過去の自分をすてた原作の強いジェイ・ギャッツに、人間的な弱さを読み込んだということか。
小説もロバート・レッドフォード主演の映画版も、プラザホテルの場面をはじめとして、汗がにじんでくるような暑さが印象深かったのだが、バズ・ラーマンの人工的な映像はなんだかクリーンすぎて全編空調完備、暑さが抜けた感じだった。マートルに与えたアパートでのパーティも本来もっとゲスい感じなはず。犬だって犬売りから買った雑種なのに小ぎれいなミニチュアシュナウザーだし。トムがマートルを殴る場面のスローモーションはコントみたい。ギャツビーはデイジーから「広告みたい」と言われるが、バズ・ラーマンの映像によってこの映画じたいも綺麗なパッケージの広告、あるいは「商品」みたいになってる感じがした。「灰の谷」の汗みどろの労働者たちでさえなんだかモデルみたい。
一番よかったのはデイジー。この女優さんがかわいいので、ギャツビーががんばったのも理解できる気がする。
ギャツビーがニックにhydroplaneに乗らないかと誘う場面が原作にもあるのだが、このhydroplane、モーターボートと水上飛行機の2つの意味があって、どちらなのかわからずにいる。翻訳でも両方あったと思う。この映画の字幕は「水上飛行機」。でも、映像は出ない。20年代に自家用水上飛行機なんてあったのかなあ。そもそも操縦できないと意味ないし。でも従軍経験あるからギャツビーは操縦できるのかも。と、結論は出ないままである。
20年代の風俗はあまり感じられず。チャールストンを踊っても音楽は現代風だし、服装も現代風。やっぱり「広告」っぽいな。ま、最近では映画じたいがなんかの広告となっているのは珍しくもないのではあるが。ティファニーとかプラダの広告か。
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