最初にEtgar Keretの作品を読んだのはFlash Fiction Forward という超短編小説のアンソロジーでだった。この本は大学の講義で毎回一編ずつ読むアンソロジーとしてたいへん重宝したのだが、そこに収録された作品のなかのひとつだった。
”Crazy Glue”という作品で、だんなが浮気している奥さんが、なんでもくっつく接着剤を買ってくる。パッケージには天井から逆さにぶら下がった人間の写真が載っていて、だんなのほうは「こんな写真つくりものだよ。子供だまし」みたいなことを言うのだが、その日うちに帰ってみると奥さんの声は聞こえど姿が見えない。探してみるとなんと天井から逆さにぶら下がっている。「今降ろしてあげるから」とその唇にキスすると、キスした唇同士もくっついちゃった、というお話である。意味は分からない。でもなんかおかしい。接着剤のパッケージ、たしかにそんな写真あるな、とか思って「ハハハ、ヘンなの」と思った。笑える。
次に読んだのはこれまた授業で、今度はゼミでもう少し長めの短編をグループワークで読ませたときのこと。なんかいい題材はないかとMcSweeney’s(アメリカの季刊文芸誌。毎回変わる装丁にもその冒険者精神は体現されている)のバックナンバーをペラペラめくっていると”Cheesus Christ”という短編が。読んでみると、チーズバーガーチェーンCheesus Christの女性店長がGMに「うちのお店ってメニューにチーズバーガーしかないから、普通のハンバーガーを食べたいお客様が『チーズ抜きのチーズバーガー』って頼まなきゃいけないんです、でもそれって問題だと思うんです」みたいな進言をしようとしている。Cheesus Christって!「チーズ抜きのチーズバーガー」って!ナンセンス。「ハハハ、ヘンなの」。また笑った。
小説は、あるいは文学は、べつに笑わせるために存在するわけではない。がしかし、笑えるのが悪いわけでもない。いやむしろ、笑えるなら笑える方がいい。っていうか、小説読んで笑って思わず「ハハハ」と声が出ちゃった経験なんてあんまりないわけで、それがともにEtgar Keretという人の手によるものだったから、「これは呼ばれているな」と思ったんである。調べてみるとKeretはイスラエルの作家で、ヘブライ語で書き、ぼくが読んだのは英訳されたものだった。
次にThe Bus Driver Who Wanted to be God を取り寄せた。「神になりたかったバスドライバー」というこのタイトルからして、いい。神とバスドライバーは全然別物、だけどバスドライバーはバスの世界では神みたいな存在だ。毎日通勤にバスを使い、走って追いかけたバスに無情にも置き去りにされる経験が多数あるからこそよくわかる。また、表紙カバーのイラストもいいんだ。
読んだらやっぱりおもしろい。超短編が多いのだが、ちょっと変な設定ですっとぼけた感じ、まじめな顔してあほなことを言っているかんじ、そして、読者の期待をたえず外して意外な方向に持って行っちゃう。なんだけど「ハハハ、ヘンなの」のあとに、なんだか考えさせられてしまうのだ。
たとえば”Hole in the Wall”では町なかの壁に開いた穴が出てくる。ATMが撤去された後の穴だという。主人公は、この穴に大声で願いを叫べばそれが叶う、と聞くのだが本気にしない。しないけど、好きな女の子が自分を好きになるようにとか願って、でもかなわない。友達がいなくてさみしいもんだから「天使の友達が欲しい」と願うとたしかに天使が出てくるのだが、あんまり友達じゃないし必要な時にはいつもいないのだ。読者は最初はこの穴の正体が気になるのだが、それは触れられることはなく天使の話になり、天使は友達になるのかと思いきや友達甲斐のない奴だとわかる。こういう話かな?という予測がポキポキと折られ、次々に裏切られていく。
天使は背中に羽は生えているけど飛ぶことはない。主人公は「ちょっと飛んで見せてよ」と頼み、天使は断るのだが、冗談半分で5階からそっと押してみたら、天使はそのまま落ちて死んでしまう。最後に主人公は思う。「あいつは天使でさえなかった。ただの羽の生えたウソつきだ」。
なんなんだこれは?
短いのに、わからないまんまずっと腹に残る感じ。それがKeretの魅力だと思う。
Keretの作品はメディアミックスでいろんな作家に取り上げられていて、たとえば”Kneller’s Happy Camper”は Pizzeria Kamikaze というグラフィックノベルになり、さらには Wristcutters という映画にもなっている。残念ながら日本ではDVDさえ出ていないが、トム・ウェイツも登場するけっこうよくできた映画である。「幸せになる方法」を明かした冊子がたったの9.99ドルで販売されている話は『$9.99』というクレイ・アニメに、映画『ジェリー・フィッシュ』はKeret自身の監督作である。
ネットとケータイの時代になってニンゲンが隙間の時間でしかテクストを読まなくなりつつある昨今ゆえKeretの書くような超短編はそういうせっかちな今のニンゲンにはぴったりだとも言えよう。が、ただ、短いとはいっても簡単に消化できるようなものではないところがいいのだと思う。
作家ジョージ・ソーンダースの次の言葉はそんなKeretの魅力をうまく伝えている。
エトガルの作品はだいたいが厳密にはリアリスティックではありませんが、それなのに究極的な意味でリアリスティックです。彼の作品はこう言っています。人生って本当はこんな感じがするんじゃない?これこそが本質的にはぼくらが直面している問題じゃないの?そして、それを越えて、僕に言わせれば芸術がなしうる最高の行為をしてくれます。それは、人に慰めを与える、ということです。エトガーの小説はこう言うんです。親愛なる人間よ、うん、まああんたは今困った状況に陥っているけれど、そこにはまっているのはあんただけじゃないよ。俺もそこから出られずにいるんだ。ここはひとつ、俺たちが陥っているこの困った状況について数分間じっくり考えてみようじゃないの。好奇心とユーモアとやさしさを持って。そうしてお互いじっくり考えれば、俺たちにはよく理解できないやりかたで、物事はどんどんどんどん良くなっていくさ。
短い小説の中でじっくり考えてみること。逆説的だけど、この短いお話たちひとつひとつに圧倒的な不可解が、そして小説の豊かさが詰まっている。世界30か国以上で紹介されているEtgar Keret が日本語で読めないままではもったいない。
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