2018年7月9日月曜日

木村友祐「生きものとして狂うこと」

 木村友祐さんのスピーチが載っている『新潮』を買ってきた。早速読んだ。まずはこれを書ききって発表した勇気を称えたい。
 木村さんが表明しているのは、誰もが狂ってもおかしくないほどのあの震災があって、われわれの日常の初期条件さえ変わってしまったあとなのに、震災前と同じような書き方を続ける文学とは、そしてそれを書く作家とは何なのか?という違和感である。別に個人を挙げて攻撃しているわけではないし、悪意があるわけでもない。でも、自覚のある作家は痛いところを突かれた、と思うだろうし、なにも思わないならその人はよっぽどぼんやり生きているのだろう。波風は立つだろう。例の被災者を扱った「美しい顔」と並べて論じる人も出てくるだろう。火種である。だから勇気を称えたい。
 

 ワタシは木村さんと同じ青森県の出身である。高校の時に現代文の教師が「青森県だっきゃ(っていうのは)日本のごみ捨て場だんだよ。原発、核燃サイクル、原子力船むつ。ごみばっかり持って来られるんだ」と言っていたのを覚えている。よくわからなかったが「ごみ捨て場にいるのはいやだなあ」と思った。テレビのニュースでは原子力船の寄港や原発に反対する人たちの運動の様子が時折映されたが、「この人たちはなんで反対反対ってやってんだ?」という以上のことは考えなかった。そして高校を卒業してからはずっと地元を離れている。「ごみ捨て場」だから離れたわけではないが、「離れられてラッキー」という思いが全くないかと言えば、正直、そんなことはなくて、物理的に離れたからいやなものを見ずに生きて来れたし考えずに済んだのだ。「憂鬱な現実」から目を背けることができた。

 2011年に東北で震災が起こった。津波で多くの方が亡くなった。福島の原発はいつになったら廃炉できるのかわからない。われわれは気の遠くなるほど長期的な、いつまでも続く「憂鬱な現実」を生きるほかなくなった。それでも人は辛いのはいやだから、辛い現実ばっかり見ていると狂うから、目を背けるし、安くても「絆」とか「がんばろう」といった物語にすがる。それじたいは生きていくための手段だし、あんまり批判したくはない。
 ただ、政治は別だ。オリンピックを呼ぶために福島の原発は「アンダー・コントロール」だと嘘をついたこの国の首相。そしてあれだけの事故が起こったのに原発再稼働に突き進む現政権。安い物語を利用し、それを信じる人々を利用する政治。まさに「あったことを無理やりなかったことにしようとしている」のが今の政治だ。
 だから、この震災に反応しないまま、震災前と同じ書き方をしている「文学」は、この政治の動きを「追認」してしまうことになる、と木村さんは言う。もちろん皆がみな震災を書くべきだという訳ではないし、スタイルは作家それぞれだろうと思うが、しかし、たしかに日本の小説は震災前と震災後でなにか変ったのかと言われれば、そこに劇的な変化はなかったように思う。
 
 消化できないような巨大な惨事を目の当たりにしたとき、それを受け止める助けをしてくれるのがことばだと思う。不条理を馴化してくれるわけでもなければ、理解可能なものにしてくれるわけでもなく、ニュースのことばとも違う、ぶんがくのことば、そういうものがあるはずだと思う。95年の震災のとき、ワタシは97年の草野正宗の書くスピッツの「運命の人」の歌詞にぶんがくのことばを、2011年の震災のあとにはトモフスキーの『いい星じゃんか』というアルバムの歌詞にぶんがくのことばを見つけた。木村さんの『イサの氾濫』は、ワタシにとってそういうぶんがくのことばのひとつだ。これを読んで震災に慣れたわけでもなければ理解できたわけでもない。でも、理解不能なでかいものを受け止める手助けとなったことばだ。だから『イサの氾濫』はワタシにとって大事な一冊だ。
 
 文学はどうするのか?
 
 思い出した(というか今まで忘れているくらいに自分も自分の思いを「なかったことに」してきたのかもしれない)。ワタシは大学の文学部で教え「文学研究」という制度化された世界で「文学」のそばにいるが、あの震災のあと、喰うことや住むことにも困る人がたくさんいるなか、世界に何も影響を与えない「文学研究」なんてなんの意味があるのか?ないじゃん、無駄だ、ってしばらく思っていた。今も思っている部分はある。
 
 でも、木村さんのような「声」を聞き、それを必要としている人にすこしでも届けるパイプになれたら、きっと意味はあるのだと思う。

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