市原佐都子、天才か!って思った。大傑作誕生の瞬間に立ち会った気がする。
最初、舞台には女優1人でCGで投影される人物に向かって、日本人やから顔が平らで不幸、白人みたいになりたい、と愚痴る。CGは見た目より中身よ、と言うのだが、そんな美しい身体を持った余裕のある白人だけが言えるんや、だからワタシはハーフの子を産む、って宣言する。ここまでで相当ゲンナリする。なんや「日本人」「白人」って雑なカテゴリー、もっと多様でグラデーションがあることくらいわかっとけ、あとそのルッキズムなんやねん、しょーもな、って相当イライラきてもうこんなん見たくないな、帰りたい、くらいに嫌悪感を感じる。
次にその女性がオリエンタル全開で白人米兵とセックスして妊娠という流れになるのだが、この米兵役が女性でかつ白人なのかよくわからない感じで、おや?と思う。
すると舞台がガラッと開かれて、作家と役者の会話になり、ひとつメタの枠に話が拡張して、ここで作家は冬子という名の日本人なのだがアフリカ系でもある身体で、でも日本人的かわいさを求められたり売りにしたり、配役でもピッタリアメリカ白人に当てはまる役者がいないからフィリピン系のあんたを使わざるを得なかったとか、それぞれ別の言語でやりとりがあって、カテゴリー分けの暴力性を嘲笑っていた自分はこの多様性や複雑さ、ステレオタイプを求められる映画や舞台、その背景や苦労、そしてそのステレオタイプに擬態している人の思いまで考えて嘲笑っていたのかよ、と見ているこちら側が突きつけられる。うわあ!ってなった。
その後上演舞台に戻ると「ハーフ」の子を産んだ母親は精神を病み自殺未遂をし、家庭は生活保護を受け息子はワキガで悩んでいる。ワキガの手術をしたい息子と整形をしたい母親。共に身体を変えることでコンプレックスを解消したいが、息子が自分の身体の匂いは自分ではわからない、と言うように判断するのは他者でありそれを内面化していては解決しない。ワキガとチンポのデカさと言うエログロ要素を持ち込みながら、それが笑いのためだけのネタではなく、人が自分であることの不可欠な要素として炙り出される。息子がLiNEでやりとりするチワワの女の子もそうで、自分のデカいチンポが日本人女性にハマるかという問題は、世界中の犬のメスがチワワでオスがセントバーナードだったら?という犬種の話に人種の問題が重ねられてハッと思う。
ステレオタイプで人を判断したらあかんよ、とわかった気になってるお前はほんまにわかってるんか?って観客に突きつけるすごい舞台だった。京都は明日明後日しかなくて、その後は来週に豊岡。豊岡でもう一回見たいな。見とかないともう見られへんのやろな。最初から見て確認したいことがたくさん。
あーすごい舞台だった!
終わったあと興奮して3人で喋りつつ歩いてどこに行くかわからなくなりそうなのでタクシーで移動して、色々語り合う。同業の文学研究者と感想を交わすのは楽しい。論文書くより、こういうのしたほうがいいよ。
3人で感想を語り合ったのち旅館に戻ってなんとかお風呂の時間に間に合う。湯上がりにロシアンブルーのリリーちゃん(11歳)をかまわせてもらい、写真を撮ろうと部屋に戻って下に降りたらもう居なかった。ネコらしくて、よい。和室は落ち着くし、客はワタシだけで静か。蚊取り線香の匂いがしている。最高か。
0 件のコメント:
コメントを投稿