白井晃演出の『幽霊たち』大阪公演に行く。
佐々木蔵之助、奥田瑛二のほかに市川美香子さんがフィーチャーされたテレビCMを見て、女性といえば「未来のブルー夫人」くらいしか出てこない小説なのに、どうするんだろ?けっこう原作から書き換えてしまっているのか?と不安に思っていたが、過剰に役柄を拡大することもなく、そして全体的に、かなり原作に忠実な演出であった。ポール・オースターの手による原作は「なにも起こらない」状況を描いた小説だが、いくつかの意味ありげな逸話に彩られている。ブルックリンブリッジにまつわる親子の逸話。床に落とされ砕けてしまったホイットマンの脳みそ。氷に閉じ込められた自分より若い父親を発見する息子。ホーソーンの「ウェイクフィールド」。そういった逸話たちを舞台上でせりふで再現していく。
舞台の上をキャストたちがさまざまに交錯しながら直線的に移動して舞台を転換していく様子は、作品の迷宮的なイメージをうまく再現していたし、主演二人のお芝居も見事であった。
舞台と小説の構造的な違いも感じた。あの小説は「なにも起こらない」状況にとじこめられたブルーが混乱していく話だが、彼はあくまで「静かに」混乱していく。小説はそれを表現しうるが、舞台ではそれはなかなか表現できない。どうしても、叫び、身もだえし、涙を流すような身体的表現になってしまう。その言ってしまえば「大げさな混乱」に、原作の世界とは異なる印象を受けた。
一方、原作と違っているところで面白かったのは、物語冒頭と最後の語りをブルーに語らせていること。とくに最後は、原作ではブルーがブラックと対峙して出て行ったあとに、突然その外部の語り手が登場し、「ブルーはこのあと中国に行ったということにしておこう」と、物語のリアリティを揺らがせる。今回の舞台では、その部分をブルーが語っている。原作に一番忠実な再現方法はおそらくナレーションで処理することだろうが、それをブルーが語ることで、彼が自分の物語に自分で結末をつけた格好になる。ブラックに取りこまれて自分の物語を失ってしまった男が、最後に自分の物語を取り返すのだ。と、同時に、そこまで語られた物語はすべてブルーの作り話である可能性も生まれる。これは大変面白いと思った。ほかにも、あの語り手がブラックだったら?とか今まで考えたことがなかったが、また別の読み方ができる可能性を教えてもらえた。
ここまでの舞台をつくりあげるのは大変な作業であったことと思う。感謝したい。
2011年7月18日月曜日
2011年6月14日火曜日
『ブラック・スワン』
「白鳥の湖」の主役を勝ち取ったバレリーナの内面が崩壊していく様を描く。
とにかくこの主人公の内面に寄り添うことを主眼としているため、彼女が見る妄想や悪夢がそのままに再現される。その妄想や悪夢がショッキングなシーンばかりで、鏡の中に血を流した母親がいてビックリ、とかなんだかホラー映画みたいである。そしてそんなショッキングなシーンがこれでもかと重ねられていくうちにだんだんマンガ的になって笑えてくる。サム・ライミの『スペル』みたいに、怖いんだけど笑えてしまう、そんな感じ。そんなコワおもろシーンの頂点は、ウィノナ・ライダー演じる入院中のかつてのスターバレリーナが爪ヤスリを片手に"I'm nothing!"と叫びながら・・・な場面。
しかしここまででこの映画を判断してはいけない。このシーン以降の実際の舞台シーン、これが圧巻であった。主役のニナが狂気にとらわれた末、実際にブラックスワンになっていく場面は、肌がブツブツだったのは、なるほど鳥肌であったか、あ、『ザ・フライ』みたい、とか思っているうちにものすごい迫力で展開していき、もう内面がどうとか理屈がどうとかいう以前にとにかく「スゴイ」。踊りきった彼女には羽根がないのに、影には羽根が移っている場面は、わかりやすいが印象的である。
最終的には妄想が現実と重なって白鳥は死ぬ。
終わってみればこれだけ物語がない映画というのも珍しい。とにかくナタリー・ポートマン演じる主人公がいかに追い込まれ、抑圧され、そこから自分を解放しようともがき、結果狂気に陥っていくかを、彼女の内面だけから描いており、プロットは言ってみればそれだけである。でも、それだけでも映画は成り立つし、本当に変な映画だなあとは思ったが、そういう破格なところもこの作品のいいところだと思う。
献身的でありながら娘に過剰な期待をかけ、娘に完璧さを要求しながらその成功を妬みもする母親の姿が印象的であった。ニナが舞台で最後に見たのは母親の顔であるが、その過剰な期待に応えられた末に行き着いたこれまで以上に高いレベルの「完璧」さは、すべてを代償として要求するものであった。
とにかくこの主人公の内面に寄り添うことを主眼としているため、彼女が見る妄想や悪夢がそのままに再現される。その妄想や悪夢がショッキングなシーンばかりで、鏡の中に血を流した母親がいてビックリ、とかなんだかホラー映画みたいである。そしてそんなショッキングなシーンがこれでもかと重ねられていくうちにだんだんマンガ的になって笑えてくる。サム・ライミの『スペル』みたいに、怖いんだけど笑えてしまう、そんな感じ。そんなコワおもろシーンの頂点は、ウィノナ・ライダー演じる入院中のかつてのスターバレリーナが爪ヤスリを片手に"I'm nothing!"と叫びながら・・・な場面。
しかしここまででこの映画を判断してはいけない。このシーン以降の実際の舞台シーン、これが圧巻であった。主役のニナが狂気にとらわれた末、実際にブラックスワンになっていく場面は、肌がブツブツだったのは、なるほど鳥肌であったか、あ、『ザ・フライ』みたい、とか思っているうちにものすごい迫力で展開していき、もう内面がどうとか理屈がどうとかいう以前にとにかく「スゴイ」。踊りきった彼女には羽根がないのに、影には羽根が移っている場面は、わかりやすいが印象的である。
最終的には妄想が現実と重なって白鳥は死ぬ。
終わってみればこれだけ物語がない映画というのも珍しい。とにかくナタリー・ポートマン演じる主人公がいかに追い込まれ、抑圧され、そこから自分を解放しようともがき、結果狂気に陥っていくかを、彼女の内面だけから描いており、プロットは言ってみればそれだけである。でも、それだけでも映画は成り立つし、本当に変な映画だなあとは思ったが、そういう破格なところもこの作品のいいところだと思う。
献身的でありながら娘に過剰な期待をかけ、娘に完璧さを要求しながらその成功を妬みもする母親の姿が印象的であった。ニナが舞台で最後に見たのは母親の顔であるが、その過剰な期待に応えられた末に行き着いたこれまで以上に高いレベルの「完璧」さは、すべてを代償として要求するものであった。
2011年6月13日月曜日
リチャード・パワーズ The Echo Maker
リチャード・パワーズはとてつもなく頭のよい作家である。知的好奇心に訴える題材を取り上げ、豊富な知識を駆使するのもさることながら、そのとてつもない頭の良さがもっとも発揮されているのはその構成力においてであろう。ザンダーの手による一枚の写真を中心に、同時進行する三つのプロットを交錯させて20世紀を描ききった『舞踏会へ向かう三人の農夫』に顕著なように、パワーズの小説の構成は緻密である。ひとつ外側の次元から俯瞰しているというか、並の作家が作品という世界を七転八倒しながらあっちでもないこっちでもないと手探りで進んでいるとしたら、それを外側からのぞき見てリモートコントロールで動かしているのがパワーズ、というくらいの違いがあろう。最初から全体の構成が「見えて」しまっている感じがする。もちろん小説というのは破綻している方がおもしろい場合もあるので、その隙のなさはあまりに完璧すぎて人によっては敬遠するかもしれないが、しかしここまで完璧に構成されれば、小説とはかくもエレガントになりうるのか、と一度読んでみればため息が出る。
2006年に発表され全米図書賞を受賞した本作もまた、巧みな構成に支えられた作品である。どこまでも真っ平らなネブラスカのフリーウェイで牛肉工場で働く若者マークのトラックが車道を飛び出し転倒する。救出されたマークは脳に損傷を受け昏睡状態に陥るが、昏睡からさめたときにはキャプグラ・シンドロームを発症していた。自分に最も親しい人たちが、ホンモノではなく誰かがなりすましたニセモノに感じられる症状である。唯一の血縁である姉のキャリンが献身的に看病するが、マークにとっては彼女は誰かが陰謀のために送り込んだ姉によく似たニセモノである。マークは病室に残された謎のメッセージに事件の手がかりを求め、それを残した人物を捜そうとする。キャリンはマークを何とか救わんと著名な脳神経学者ウェバーに手紙を書き、自分の本の題材としてマークに関心を持ったウェバーはネブラスカにやってくる。こういた人間たちの記憶と個を巡る話の背後に常にあるのが、種としての集団的記憶に突き動かされて毎年この地に飛来するツルたちの存在であり、物語の後半には、鳥たちのための環境保護運動に取り組むダニエルと市場の論理で開発を進めるロバートという形で、この題材がプロットにも関わってくる。また、マークに残された謎のメッセージは一行ずつが各章の章題ともなっており、このあたりにもその構成の妙が見てとれるのである。
個の意志など持たぬかのように集団の記憶で行動するツルとの対比であぶり出されるのは、あまりにも「個」に、そのエゴに固執してしまう人間の姿である。ただ、もちろんそんな単純な対比の話ではない。その人間の「個」でさえ、「私」という意識さえ、われわれが信じているほどに安定したものではなく、記憶によってようやく保たれている幻想に過ぎない。そしてキャプグラによって姉や愛犬がニセモノに見えてしまうマークの姿が逆に映しだしてみせるのは、我々の認識じたいが脳という装置によってつくられたヴァーチャルなモノである可能性、キャプグラでなくともそもそも現実世界がヴァーチャルであり、そしてそもそものこの小説という容れ物からしてヴァーチャルだという事実である。
マーガレット・アトウッドが書評でこの作品は『オズの魔法使い』を下敷きにしているということを書いていて、それによるとキャリンがドロシーで、脳に損傷を受けたマークはかかし、自分がニセモノであると気づいてしまったウェバーはオズだという。だが、この指摘がおもしろく感じられたのは、これを読んだときに、この作品というよりも、パワーズその人が言っていたことが思い浮かんだからである。彼は「頭と心の両方にアピールする小説を書きたい」と言っていた。かかしの探している「脳」と、ぶりきの木こりが求めてやまない「心」である。「勇気」や"guts"のことは口にしていなかったが、なるほど彼の意識の奥底には『オズの魔法使い』があるのかもしれない。いや、むしろ逆か。頭と心の問題はずっとパワーズの意識の中にあって、だからこそそれが表出した作品がオズ的に見えたと言うことだろう。
2006年に発表され全米図書賞を受賞した本作もまた、巧みな構成に支えられた作品である。どこまでも真っ平らなネブラスカのフリーウェイで牛肉工場で働く若者マークのトラックが車道を飛び出し転倒する。救出されたマークは脳に損傷を受け昏睡状態に陥るが、昏睡からさめたときにはキャプグラ・シンドロームを発症していた。自分に最も親しい人たちが、ホンモノではなく誰かがなりすましたニセモノに感じられる症状である。唯一の血縁である姉のキャリンが献身的に看病するが、マークにとっては彼女は誰かが陰謀のために送り込んだ姉によく似たニセモノである。マークは病室に残された謎のメッセージに事件の手がかりを求め、それを残した人物を捜そうとする。キャリンはマークを何とか救わんと著名な脳神経学者ウェバーに手紙を書き、自分の本の題材としてマークに関心を持ったウェバーはネブラスカにやってくる。こういた人間たちの記憶と個を巡る話の背後に常にあるのが、種としての集団的記憶に突き動かされて毎年この地に飛来するツルたちの存在であり、物語の後半には、鳥たちのための環境保護運動に取り組むダニエルと市場の論理で開発を進めるロバートという形で、この題材がプロットにも関わってくる。また、マークに残された謎のメッセージは一行ずつが各章の章題ともなっており、このあたりにもその構成の妙が見てとれるのである。
個の意志など持たぬかのように集団の記憶で行動するツルとの対比であぶり出されるのは、あまりにも「個」に、そのエゴに固執してしまう人間の姿である。ただ、もちろんそんな単純な対比の話ではない。その人間の「個」でさえ、「私」という意識さえ、われわれが信じているほどに安定したものではなく、記憶によってようやく保たれている幻想に過ぎない。そしてキャプグラによって姉や愛犬がニセモノに見えてしまうマークの姿が逆に映しだしてみせるのは、我々の認識じたいが脳という装置によってつくられたヴァーチャルなモノである可能性、キャプグラでなくともそもそも現実世界がヴァーチャルであり、そしてそもそものこの小説という容れ物からしてヴァーチャルだという事実である。
マーガレット・アトウッドが書評でこの作品は『オズの魔法使い』を下敷きにしているということを書いていて、それによるとキャリンがドロシーで、脳に損傷を受けたマークはかかし、自分がニセモノであると気づいてしまったウェバーはオズだという。だが、この指摘がおもしろく感じられたのは、これを読んだときに、この作品というよりも、パワーズその人が言っていたことが思い浮かんだからである。彼は「頭と心の両方にアピールする小説を書きたい」と言っていた。かかしの探している「脳」と、ぶりきの木こりが求めてやまない「心」である。「勇気」や"guts"のことは口にしていなかったが、なるほど彼の意識の奥底には『オズの魔法使い』があるのかもしれない。いや、むしろ逆か。頭と心の問題はずっとパワーズの意識の中にあって、だからこそそれが表出した作品がオズ的に見えたと言うことだろう。
2011年5月31日火曜日
2011年5月2日月曜日
『キッズ・オールライト』
レズビアンカップルと息子娘の4人の家族。自分の生物学上の父親がどんな人なのか興味を持った子供が精子提供者に連絡して会ったことから、4人の家族に変化が訪れる。
「やっぱり家族はイイ!」「素敵な親子の絆!」みたいな安直な話ではないと思う。そう見る人も多いだろうけど。もっと軽い感じで、「いろいろあるよ、ここだって」な映画だと思う。
ゲイのカップルは今では「正しい」。ある程度現代的なリベラルさを持った人なら、それが差別してはいけない対象だということを理解している。当然本人たちも、その子供たちも、自分たちが「正しい」ことを理解している。精子提供者のポールがそういう家庭にもたらしたのは、「間違い」だった。家族の一人はポールとともに「間違い」をおかし、あとの三人は「間違い」を断罪する。もちろんそれはほかの家族であっても「間違い」だし、断罪されることであろう。でも、あまりにも「正し」く、力の入った「正しさ」を持ったこの家庭だからこそ、「間違い」にどう向かうのかが大事だったのではないだろうか。
結論はない。「あーよかった!」も「えーそんな!」もないまま物語は終わる。でもそれでいいのだと思う。「間違い」があったとき、簡単に壊れることも、簡単に消化してしまうこともないのが、家族なのであり、ここだってよそだって、ストレートだってゲイだって、どこいってもそりゃあいろいろあるもんだもの。
「やっぱり家族はイイ!」「素敵な親子の絆!」みたいな安直な話ではないと思う。そう見る人も多いだろうけど。もっと軽い感じで、「いろいろあるよ、ここだって」な映画だと思う。
ゲイのカップルは今では「正しい」。ある程度現代的なリベラルさを持った人なら、それが差別してはいけない対象だということを理解している。当然本人たちも、その子供たちも、自分たちが「正しい」ことを理解している。精子提供者のポールがそういう家庭にもたらしたのは、「間違い」だった。家族の一人はポールとともに「間違い」をおかし、あとの三人は「間違い」を断罪する。もちろんそれはほかの家族であっても「間違い」だし、断罪されることであろう。でも、あまりにも「正し」く、力の入った「正しさ」を持ったこの家庭だからこそ、「間違い」にどう向かうのかが大事だったのではないだろうか。
結論はない。「あーよかった!」も「えーそんな!」もないまま物語は終わる。でもそれでいいのだと思う。「間違い」があったとき、簡単に壊れることも、簡単に消化してしまうこともないのが、家族なのであり、ここだってよそだって、ストレートだってゲイだって、どこいってもそりゃあいろいろあるもんだもの。
2011年4月23日土曜日
2011年3月7日月曜日
篠山ABCマラソン
昨年に引き続き2度目の篠山。前回は雨だし寒いしで最後の方は力尽きて歩いてしまった。今年の目標は、①歩かず完走 ②自己ベスト3時間52分の更新 ③できれば40分台前半にのせたい、である。たぶん全部達成しちゃうだろうな、と思っていた。勝算ありなのである。というのも2月くらいからかなり走りこみ、事前に30キロランや40キロランもやったし、走りこみの結果体重も3キロほど減り、今までで一番軽い状態でのレースなのだ。
朝5時起床。おにぎり2個、野菜ジュース、ヨーグルト、バナナ2本を食べて出発。三宮のマクドでマフィンセットを食す。バスで篠山へ。1時間半くらいで到着。8時の篠山は気温1度。寒い。今日は最高気温13度まで行くという予報であったが、結局その後もずっと寒かった。
教訓1 「篠山は寒い」
早い時間なので更衣テントもすいている。ゆっくり着替えながら、さらにバナナ3本とシリアルバー的なものを2本食す。全然食べたくないのだが、レースに備えて食べねば、と気持ち悪くなりながらも食べる。
10時50分スタート。最初はやはり団子状態なのだが、なんだか体が重い。キロ6分くらいで走りだし、なかなかスピードが上がらない。5キロくらいまでこんなかんじ。ああ、これは明らかに食べすぎだな。
教訓2 「食べすぎはあかん」
すこしずつペースを上げてキロ5分20-10くらいで走る。でもやっぱり体が重い感じ。あんまり快調ではない。とはいえ20キロくらいまではあっという間。
このあたりで早くも肩やおしりにちょっと痛みが。早すぎるなあ。それでもペースは崩さず30キロ過ぎの折り返し地点へ。去年はこのあとがしんどかったんだよなあ。今年はなんとか持ちこたえたい。
しかしやっぱりしんどくなってきた。だんだんペースが落ちてくる。残り7キロくらいで、5分40くらいのペースに落ちる。残り5キロ、5分40のペースのまま行ければ3時間50分は切れる計算、なんとかがんばってペース維持。
残り4キロ、ずるずるとペースが落ちる。ガス欠ではなくて足に乳酸がたまった感じ。太ももが張る。足が動かない。しんどい。もういつでも歩いてしまいそうなかんじだが、意地で踏み続ける。キロ6分を超え6分30秒を超える。スピードが落ちるのと反比例してゴールまでの距離は長く感じられていくから、最後の2,3キロはほんとにしんどかった。
結果3時間53分。歩くことこそなかったものの、40分台どころか自己ベストの更新もならず。
ゴール後あまりにしんどく、しかもおなかもすいてない。お風呂に行く気にもならず、おみやげ買ってバス乗って帰宅。
うちでペース記録を見てみると30キロまでは順調でそのあとは落ちて行っているのがわかる。今の体力だとまだ30キロってことですな。最後の5キロを軽やかに走るにはどうしたらよいのか?もっと体重を落とす?脚力をつける?うーん、わからん。
しかし「篠山はつらい」という印象がまた強くなった一日であった。
朝5時起床。おにぎり2個、野菜ジュース、ヨーグルト、バナナ2本を食べて出発。三宮のマクドでマフィンセットを食す。バスで篠山へ。1時間半くらいで到着。8時の篠山は気温1度。寒い。今日は最高気温13度まで行くという予報であったが、結局その後もずっと寒かった。
教訓1 「篠山は寒い」
早い時間なので更衣テントもすいている。ゆっくり着替えながら、さらにバナナ3本とシリアルバー的なものを2本食す。全然食べたくないのだが、レースに備えて食べねば、と気持ち悪くなりながらも食べる。
10時50分スタート。最初はやはり団子状態なのだが、なんだか体が重い。キロ6分くらいで走りだし、なかなかスピードが上がらない。5キロくらいまでこんなかんじ。ああ、これは明らかに食べすぎだな。
教訓2 「食べすぎはあかん」
すこしずつペースを上げてキロ5分20-10くらいで走る。でもやっぱり体が重い感じ。あんまり快調ではない。とはいえ20キロくらいまではあっという間。
このあたりで早くも肩やおしりにちょっと痛みが。早すぎるなあ。それでもペースは崩さず30キロ過ぎの折り返し地点へ。去年はこのあとがしんどかったんだよなあ。今年はなんとか持ちこたえたい。
しかしやっぱりしんどくなってきた。だんだんペースが落ちてくる。残り7キロくらいで、5分40くらいのペースに落ちる。残り5キロ、5分40のペースのまま行ければ3時間50分は切れる計算、なんとかがんばってペース維持。
残り4キロ、ずるずるとペースが落ちる。ガス欠ではなくて足に乳酸がたまった感じ。太ももが張る。足が動かない。しんどい。もういつでも歩いてしまいそうなかんじだが、意地で踏み続ける。キロ6分を超え6分30秒を超える。スピードが落ちるのと反比例してゴールまでの距離は長く感じられていくから、最後の2,3キロはほんとにしんどかった。
結果3時間53分。歩くことこそなかったものの、40分台どころか自己ベストの更新もならず。
ゴール後あまりにしんどく、しかもおなかもすいてない。お風呂に行く気にもならず、おみやげ買ってバス乗って帰宅。
うちでペース記録を見てみると30キロまでは順調でそのあとは落ちて行っているのがわかる。今の体力だとまだ30キロってことですな。最後の5キロを軽やかに走るにはどうしたらよいのか?もっと体重を落とす?脚力をつける?うーん、わからん。
しかし「篠山はつらい」という印象がまた強くなった一日であった。
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