2013年5月29日水曜日

『朗読劇 銀河鉄道の夜』

  舞台の上には翻訳家が立っていた。どう見てもオーバーサイズのシャツに半ズボンをはいて。

  翻訳家は大学教員でもある。大学教員は舞台に立つ必要はないし、翻訳家も舞台に立つ必要はない。そもそも大学教員が翻訳をする必要も、翻訳家が大学教員をする必要もない。でも、「する必要がある」ことしかしない人生なんてなんとつまらないことか。「余計なことはしすぎるほどいい」(草野正宗「運命の人」)のだ。それを翻訳家は身をもって示してくれていた。

  ぼくらの日常には「はいはいそれでいいっすよ」が蔓延している。「する必要がある」ルーティーンに対して、できるだけコミットせず労力を費やさない方法。でも、この舞台の裏には「はいはいそれでいいっすよ」はなかったのだと推測する。「ああしようよこうしようよ、こうしたらもっと良くなるって、もっとおもしろくなるって!」だったのだと思う。だって翻訳家だけじゃなくて詩人も小説家も歌手もみな、もともと舞台に立つ必要はなかったのだから。それがわざわざ舞台に上がった。熱を生まないわけがない。

  宮澤賢治のイタコとなった古川日出男は鬼気迫る様子で賢治として語り、その作品をサンプリングしていく。そして「ハレルヤ」を「ハルレヤ」と書いたことの意味へと物語は向かう。

  簡単には消化できないなにかを受け取った。ことばにできないのがもどかしい。「わかった」わけじゃない。むしろわからないままだ。でも受け取ったものは大きくて、きっとそれは「胸いっぱい」ってことなのだと思う。

  最後のあいさつで半ズボン姿の大きな少年は感極まり、虚勢を張るかのようにあごを上げ、大股の急ぎ足で舞台そでに引っ込んだ。ぼくもちょっと涙が出た。

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