2013年5月13日月曜日

リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』


 
 人間なんのために生きているのかはわからないが、日々いろいろがんばったり工夫したりしているのはこれすべて「今日も機嫌よくいる」ためである。いいことがあれば機嫌がよい。仕事で成功すれば機嫌がよい。おいしいものを食べると機嫌がよい。逆にいやなことがあったり、失敗したりすると機嫌よくはいられない。悲しい、落ち込む、不安になる。そういった機嫌の程度が普段から高い人もいれば低い人もいるし、高低の幅が大きい人もいれば小さい人もいる。ぼくらはその一人一人の感情的性質の違いを普段は「性格」によるものだとしている。
 ところが、たとえばうつ病治療にSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)という薬物を使うように、脳神経内の分泌物を外側から操作することによっても感情というものは変えられる。プロザックというSSRIが前向きになれるハッピードラッグとしてアメリカで爆発的に売れた話は記憶に新しい。化学物質の投与で気分がよくなるなら、究極的には、うまいことセロトニンとかドーパミンとか脳で調整して常に「機嫌よく」いればいい。今やそういうことがある程度可能な時代である。
 しかしそもそもの「性格」じたいが「機嫌がよい」設定であればそれに越したことはない。リチャード・パワーズの『幸福の遺伝子』の主人公タッサはそういう人である。性格の初期設定が「すこぶる機嫌がよい」なのだ。アルジェリアの内戦で両親を失いアメリカに移民としてやってきた不幸な過去を持つにもかかわらず、タッサはまわりのどんなアメリカ人よりもハッピーである。その「機嫌のよさ」はまわりの人々にも感化力を発揮していく。大学の作文クラスで彼女を教える教師ラッセルは、その彼女の「機嫌のよさ」を訝しみ、その原因をドラッグや軽躁病ではないかと疑うが、そうではなく「感情高揚性気質(ハイパーサイミア)」だと結論付ける。そんななかタッサが巻き込まれたレイプ未遂事件のニュースが広まり、彼女の存在がゲノム学者カートンの知るところとなる。カートンがタッサの調査から発見したのは、彼女の「機嫌のよさ」は遺伝子によるものだということだった。ならば遺伝子を調節すれば人はみなタッサのように常に機嫌よくいられるし、そもそもその「幸福の遺伝子」を手に入れれば、生まれてくる子供は常にハッピーである。しかしその遺伝子は極めてまれなのだ。こうしてタッサは自分の遺伝子をめぐる、ネットを中心とするメディアによって加速された全国的熱狂に巻き込まれていく。

 相変わらずリチャード・パワーズはものすごく、とてつもなく、頭がよくて、遺伝子科学をはじめとしたその知識量にほれぼれするし、その知識を小説に組み込んでいく緻密な構成の見事さに感服させられる。いつもパワーズを読んで思うのは、文系/理系っていう枠組みはほんとに頭のいい人の世界では無意味だよなーってことである。ぼくらはみな「機嫌よく」いたい。日々機嫌よくいることに必死である。それが遺伝子操作でなんとかなるものならそうしていけない理由はあるのか?科学と倫理の問題。現代社会が突きつけられている課題である。しかしパワーズはそれを単純な二項対立にして「科学vs倫理」みたいな昔のSFみたいな話にはしない。テクノロジーは、文学と同じくぼくら人間が頭の中からこの世へと作り出した「表現」であり、パワーズはその両者がともに存在しているこの世界のありよう自体を描いて見せる。
  「幸福の遺伝子」をめぐる狂騒を追いながらぼくら読者は「幸福ってなに?」という根源的な問いに立ち返らざるを得ない。幸福が脳の働きに過ぎないなら幸福しか感じない脳を作ればいい、遺伝子でそんな脳を作れるなら遺伝子を書き換えればいい。でもそのときに感じる「幸福」は、いまぼくらが慣れ親しんだ「幸福」とは違った定義を必要とし、ぼくらの生きる意味さえ変えてしまうだろう。でも、それが可能になりつつなる社会で考えなければならないのは、それを単に「自然に反している」と言って攻撃することではなく、そうやって変わっていく世界での人間のあり方についてなのだと思う。
  「幸福の遺伝子」が希少なものであることについては、「進化がそれを嫌った」のだと作品内でも書かれていて、その意味を考えることも大事だと思う。ぼくらが日々感じる落ち込みや恐怖、不安、そんな感情を抱える「機嫌がよい」状態ではないぼくらは淘汰の結果残された適者なのだろうか。しかし適者でいることと快適でいることのどちらが個体としてのぼくらにとって大事なのか。

 この小説では一人称の「私」を名乗る語り手がところどころに顔を出す。作中登場人物ではない語り手が「私」として語るのは、訳者あとがきにも触れられているようにメタフィクション的な仕掛けであり、たいていはその作品じたいを書いている作者が小説の枠組みを越境して「私」として登場する。しかし、この作品の「私」は作者ではないのではないか、と最初思った。ラッセルの読んでいる本を覗き込み、「盗み見がばれたと思い、目を逸らす」「私」は、物語上の現実と同じ次元に属しているように読めるからだ。ならばこの「私」は誰なのか?訳者は「その正体が何者かを推理するのは難しくない」と書いているが、白状するとぼくには最後までよくわからなかった。最初は「作者」パワーズだと思い、でも、この人が物語内現実と同じ現実に属していることを知ってからは「遺伝子」が語っているのかと思った。しかし遺伝子は「彼女に窓の日除けを上げさせ」(118)ることはできても「大きなジャンプカット」をすることはできない。ならばこの「私」は神かとも思った。ところがそれでは「私の国では30分に一冊、新しいフィクションが出版される」(140)の説明がつかない。神に国籍はないだろう。
 物語の結末部分でいろいろなものが「消える」。そして「私が現われる」。その状況は「物語以外の場所では二度と起こりえない」と描写される。タッサは「私が考え出した友人」と描写される。ならばやはりこの「私」は書き手であるパワーズなのか?いや、むしろ「物語の神」なのか?
 まだ答えが出ないままなのだが、こういうメタフィクション的な仕掛けが有効なのも、この物語が人間のありようといういわば神が綴った「物語」についてのものだからだ。そしてその物語の内側には無数の小説という物語がある。それを綴るのは作者というその世界を統べる「神」である。その物語のひとつである本作の中で主人公(?)のタッサが好むのはカメラのファインダーをのぞき込み現実を切り取ること、すなわちそこに「物語」を生み出すことなのである。

 今回もやはりパワーズはすごかった。「頭と心の両方にアピールする」小説だった。その「頭」の部分はパワーズその人の膨大な知識によるものだけれども、当然その翻訳者も匹敵する「頭」がないと到底翻訳はできないわけで、それをこのような形で日本の読者に届けてくれた訳者の「頭」にも感謝である。だって脳神経科学の用語だけでもそうとう大変ですよ。

 遺伝子学者カートンとノーベル賞受賞作家が客前で討論会をする場面があって、ここは「物語」の力を考えるうえでもとても印象的な場面なのだが、その討論会の決め台詞としてカートンはこんなセリフを用意する。

もしも未来にいらっしゃるご予定でないお客様がいらっしゃいましたら、お急ぎ、当機からお降りになることをお勧めいたします。

でも、未来へ向かう飛行機からは、ぼくらは誰も降りられない。だから乗りながら、飛びながら考えなきゃいけないし、だからパワーズを読まなきゃならない。

2013年4月16日火曜日

芦屋国際ファンラン

 1年ぶりのレース。例年は桜が綺麗だが今年は1週間ほど遅くて桜はほとんどない。それでもレースとともにピクニックを楽しむ大勢の人。同僚Kのゼミにならって今年はうちのゼミもピクニック。事前に声をかけたときに4人のレース参加希望者が出たが、申し込みが間に合わなかった。残念。最近のランニング人気はものすごくて、ぐずぐずしているとすぐに定員オーバーで締め切りになってしまうのであった。来年に期待である。
 肝心のレース(ハーフ)は、久しぶりだし完走できればよいと思っていたが、1時間55分とかなりのんびりしたタイム。遅いのはまだしも15キロくらいでけっこうしんどくなって、このままではとてもフルは保たないと思った。体重減らさないといかん。
 レース後は楽しいピクニック。天気も良くビールがうまい。こういう機会を楽しもうという気持ちのあるゼミ生が集ってくれてよかった。ゼミ代もうまく仕切ってくれて安心である。お隣のKゼミ生も入り乱れてなかなか楽しく酔っぱらった。

2013年1月23日水曜日

you've got mail.

 昔そういうタイトルの映画があって、トム・ハンクスとメグ・ライアンが主演で、メールが来ると人の声で"You've Got Mail!"って音が出て、あれはメーラーがアウトルックとかじゃなくてAOLってプロバイダの独自のやつで、そういえば当時うちもAOLで、あのころは 電話回線のダイアルアップ接続だったからその都度電話の回線外して、ピーガガガガガ、ピコーンガコーーン、・・・You've got mail!だったなあ。そしてあの映画はマンハッタンの小さな本屋がバーンズ&ノーブルと思しき巨大チェーン書店に駆逐される話であった。
 それがたった十数年で、いまや駆逐されつつあるのは巨大チェーン書店のほうで、駆逐しているのは当時はまだなかった(んじゃないかと思う)ネット書店の amazonである。現実に二大チェーンの一方の雄Bordersは潰れちゃったし、バーンズ&ノーブルも苦戦してるに違いない。
 でもB&Nがなくなったらアメリカ人、本買う場所なくなっちゃう。どうするか?amazonがあるからいい、にはならないだろう。kindleに 行くのももともと本を読む習慣のある人だけだ。そうじゃない人はどうなるか。本など読まなくなる。本屋がなくなれば本というものがあることさえ気づかなく なる。
 そしてきっとそうなった時一番困るのはamazonである。ネット通販会社ってのは多くの路面他店をショーケースとすることで儲けてきたわけで、そのショーケースがなくなったら人々の欲望も生まれなくなる。だからamazonには自前の路面本屋を作って欲しい。
 ジャングルがなくなる前にジャングルを作るというか、Amazonだけに。

2013年1月16日水曜日

Kindle Paperwhite

 アマゾン発の電子ブックリーダーkindle paperwhiteを昨日入手。
  これは便利。

 ・いつでも同期してくれるから、どの端末で開いても前に読み終わったところから読み始められる。オフィスでパソコンで読んで、電車の中でスマホで続きを、うちに帰ってipadで読んで、寝る前にベッドでKindleで、なんてこともできる。
 ・辞書がワンタッチ。単語を押すだけで辞書を引いてくれる。それも簡易版じゃなくてプログレッシブ英和中が入っているので、たいていはまかなえる。
 ・本を買うのがラク。読みたいものがすぐ入手できてその場で読める。

  結局本を読むのは「本」というモノではなくコンテンツを読んでいるのであって、それを容れる媒体が本であろうがKindleであろうが、コンテンツを読めればいいわけで、本の物質的な制限から解放される利点が多いなら電子ブックでもいい。いまんとこKindleは欠点よりそういう利点が多いような印象。

  もうひとつ大事なこと。この端末はいろんなことができないのがいい。ipadでも本は読めるが、ipadはなんでもできてしまう。なんでもできてしまうと、本を読むよりラクで楽しいことが気になっちゃってうっかりメール見たりネットサーフィンして本のことは忘れてしまう。Kindleは本しか読めない。そこがいい。

2012年12月25日火曜日

42

なった。お祝いしていただいた。ありがとうございます。 若いうちは、なりたい自分になろうと努力することが大事だが、おっさん過ぎたら、なれない自分を受け入れることも大事。バカボンのパパを超えたからには「これでいいのだ」と言えるようになりたい。

2012年7月28日土曜日

『孤独の発明』「見えない人間の肖像」

ポール・オースターの『孤独の発明』の前半部「見えない人間の肖像」は、オースター自身の亡き父をめぐる思索であり、回想であり、その不可視の人物をなんとか理解したいという試みである。自己の中に退却し、息子にも、世界にも決して自分をさらけ出すことのない父。
この本をかつて読んで、これは自分の話だと思っていた。もちろんこの作品の中で綴られる父の家系の秘密みたいなエピソードはぼくの父の歴史にはない。それでも、息子に関心を示すことのないオースターの父親のエピソードに、ぼくは気難しく無口で息子を決して褒めることのなかった自分の父親の姿を重ね、これは自分の父であり、自分の物語であるような気がしていた。
しかし、それは間違いだった。ぼくの父はほかならぬぼくの父であり、ぼくの父の死はほかならぬぼくの父の死であった。死というのはあくまで個別のもので、似ているとか近いとか、そういうもんじゃなかった。

6月23日に父が死んだ。突然のことであった。なんの病気もなく、なんの前兆もなく。趣味のウォーキングから帰り風呂に入った父はそのまま風呂場から出てこず、母に発見された時には息絶えていた。あらかじめ巻かれていたゼンマイが切れてしまったかのように、父の生は終わった。73歳。それはただの数字だ。なんの意味があるのか。わからない。父の死も、そして父の生も。

順番である。親は子より先に死ぬ。そんなことはわかっている。いつか来るもんだとは思っていた。しかしいざそれが来てしまうと、自分があまりにそれに対して無防備であったことをいやというほど思い知らされた。

  生と死というのは地続きだ。生きていたものが、あるふとした瞬間に死に変わる。

遺体と対面し、動かなくなった父に話しかける。亡骸とともに一晩過ごし、そのうちに遺体は遺族にとって「人」からだんだん「モノ」になっていく。ぼくらは死に慣らされていく。
モノになった遺体を焼き、葬儀を行い、慌ただしさの中、そして久々に会う母や姉弟、甥っ子姪っ子が一堂に会す珍しい機会、その非日常性がもたらす躁状態の中、悲しみや喪失感が訪れては紛れていく。ぼーっとしたまま時が流れていく。

ひと月が過ぎ、いくらか正気に戻ってみると、父の死をいろんな出来事の時間的座標軸にしている自分に気づく。「そうか、あのときはまだ父が生きていたんだ・・・」


父はぼくにとって世界でもっともわからない人物であった。なにか自分の世界にこもったようであり、たぶん息子のぼくにはあまり関心がなかったのだと思う。なにせあまり心配された記憶がない。それはぼくの人生が順風だったというわけではなく、父が自分の安全な世界の外側にある不安を自然と避けていたからではないかと思う。だからぼくが何か失敗すると父はいつもひどく不機嫌になった。そのことでぼくは何度も傷ついたし、父とケンカもした。それでもわかりあうことはなかった。

きっとこの先もずっとわかりあえることはないのだと覚悟していた。父は父の人生、ぼくはぼくの人生を全うすればよい。 しかし、いざそれがもう避けられない事実になってしまうと、どうにも辛い。やりきれない。

ぼくの父の死とオースターの父の死は違う。それでも、この人が書いた一節にぼくはいま、これまでになく共感している。

父は見えない人間だった。他人にとって見えない人間、おそらくは自分自身にとっても見えない人間だった。父が生きているあいだ、私は父をさがしつづけた。そこにいもしない父親を探し求めた。そして父が亡くなったいま、私は依然、父を探しつづけねばならないと感じている。死は何も変えていない。唯一のちがいは、時間がなくなってしまったことだけだ。

  時間がなくなってしまった。突然に。なんの予告もなく。途方に暮れるしかないではないか。
  

2012年4月3日火曜日

大人は素敵か?

奥さんがふと口ずさむ。薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」。

♪   愛って よくわからないけど 
   傷つく 感じが素敵
   笑っちゃう 涙の止め方も知らない
   20年も生きて来たのにね  ♪

 20年?
 この歌の語り手である女性はまだ20歳なのである。衝撃を受けた。

 なんと大人っぽいことか。「もうハタチだっていうのに、あたしまだ泣いちゃうなんてガキよね」な感じである。こんな20歳、今の世の中にいたらお目にかかりたい。絶対にいない。今の子なら、むしろ子供のように泣く様子を自分のピュアさとしてアピールするであろう。
 もちろんこの歌詞の女性だって、ほんとはそんなに大人なわけではないのかもしれない。「あたしったらガキね」に見られるのは、自分をなんとか大人に見せたい、という「背伸び」である。だからほんとはまだ子供だ。
 でも、そこからわかるのは、この時代、昭和歌謡の80年代までは「大人」があこがれの対象だったという事実である。みんな「大人」になりたかった。だから「ガキ」は軽蔑されたんだ。

 それから四半世紀、今「大人」はいない。自分も含めて。みんな子供のままでいたがる。幼稚な一次的欲求を肯定して恥じることもない。

 いつのまに日本の社会はこれほどまでに成熟を拒むようになってしまったのだろう?

 昔は大人は絶対的に偉かった。制度として年功序列だとか3世代にわたる同居とかが普通だったから歳をとっている=偉い、でその制度がおっさんの自 己規定にもなって内面化され、おっさんに幼稚な振る舞いは許されなかった。結果、おっさんは大人な振る舞いを義務付けられた。そういう社会的制度が外され て自由になったのはよいことである反面、結果、みんなが幼稚になっちゃった。

 素敵な「大人」になりたいものだ。