2016年11月25日金曜日

46

まだなってないですが、昨日のゼミでゼミ生が祝ってくれました。もうほんとにね、うちのゼミ生は毎年チョーいい子で、お給料もらってこんなことまでしてもらって、教員冥利に尽きます。


おいしいケーキをみんなで食べまして、バースデーメガネをもらったので、授業中ずっとかけたままやりました。ダブルメガネです。



ホワイトボードのメッセージも嬉しかったし、プレゼントがまた気が利いているんです。






ゼミ公認作家との争いの模様をプリントしたマグカップ、そしてA氏をモデルにしたYonda?ピンバッジ。どっちもすごく嬉しい。Yonda?は福永さんの「謝辞」からの流れでもありますが、文学系のゼミならではのチョイスだし、同時にA氏の「呼んだ?」でもあるという秀逸なもの。みんなで着けました。


今年のゼミ生は特に元気があっていい感じなのですが、この子らに自分ができることはなんなのか、よく考えてがんばんなくっちゃなと思います。



感謝。そして感謝。




2016年11月20日日曜日

第6回神戸マラソン

 第1回以来5年ぶりの当選。気合が入る(べき)ところではありますが、最近忙しいのでちょっと心配しつつ、それでも今月3日には一回フル走っているし、1週間前にはハーフ走っているし、いけんるんでないの?といつものように楽観。

 2日ほど前からカーボローディングのつもりでばくばく食べて体重は1キロ増。6時20分起床。おにぎり3個、もち、ヨーグルト、野菜ジュース。

 今回の給食は、前回のフルの時、10キロで酒饅頭を食べたら腹持ちが良かったので、10キロ酒饅頭。あとはジェルとブラックサンダー、そしてアミノ酸の粉。

 




 朝おきてからずっと眠くてバスで寝て、スタートエリアに入ってからがまた1時間くらいあったのでまた寝そうになる。なんというかリラックスというかぼけぼけというか。スタート時点で気温19.5度。夏か!

 Dブロック、第2ウェーブでの出発なのでスタートは15分遅れの9:15。今回はのレースプランは結構迷っていて、先日のフルがキロ6分のイーブンで行けたので、それ以上にしたい、しかしサブ4を狙ってつぶれるのはいや、ってことでペース設定がわからん。。どーしよっかなー、って思っているうちにスタート!

 スタートから3キロくらいまでGPSがアホになってスピードがわからなくなる。人が多いとなるのかな?なので適当に走ってそのペースで行こうと決定。だいたいキロ5:40くらいに落ち着く。いいじゃない。サブ4ペースやん。なんだかずっと体が重いのが気になるが、レース最初は重いくらいの方がいい!というマラソン本の言葉を思い出し「いけるかも?」とニヤリ。

 10キロくらいまではサクサクで、あ、もう1キロ進んだの?みたいに早く感じる。だが、体は相変わらず思い。うーん、これは重い。
 
 友人おかっちが舞子のあたりに見に来るかも、と言っていたので、せめてそこまではかっこよく行きたいものだ、と頑張る。でも折り返しでもいなくて、ありー?とがっかりしていると20キロくらいでいました。奥さんと娘さんも。こういうの、嬉しいね。

 そういえば今回は伝統の「甲南大学チーム文学部」Tシャツに、ゼッケンは「アッキー」のニックネーム入りにしたのだが、けっこう「アッキー、がんばって!」って声をかけてもらえて、これはまた楽しい。5年前はつぶれて歩いているときに、追い越すランナーに「甲南ガンバ!」と何度も励ましてもらったが、今回は一回もなかったなあ。



 21キロを超えてようやく半分。あ、しんどい。太ももとケツが痛い。歩きたい。えー!さすがに早いんでないの?

 とてもしんどいのだが、さすがに30キロまでは歩いたらダメでしょ、と思って踏み続ける。こっからが長かった。なかなか距離が減らない。足は痺れているし、スピードは出ないし、出そうという気にもならない。それでもコツコツ踏み続け、ようやく30キロ。

 そうなると、うーん、32Kまで行って、残り10キロってとこまでは歩きたくないな、となり、次には、うーん、35までなんとか、と体の要求を頭で拒否し続ける。そのうちハーバーランドに出て、ここは人が多いので歩きにくいので走り続け、上りのバイパスが出てきたが、これを登りきるまではなんとか、そしてこのバイパスがかなり長かったのだが、次はバイパス出るまではなんとか、と粘って、結局38.5Kまで歩かなかった。

 そのあとは歩いたり走ったりで、なんとかゴールし。

 手元で4:23。

 2週前に練習で出たユリカモメマラソンよりも遅い。サブ4どころではない。しかし、21キロからもう歩きたかったのに、そのあとよくこんだけ粘ったと自分をほめてあげたい。

 たぶん、練習不足。脚がまだできていない。せめて週に二回は走らないとなあ。距離を踏む練習と、インターバルランでスピード練習。

 12月末の加古川ではなんとか4時間切っときたい。がんばらな。忙しいんだけどね。

 そういえば走っている間食欲もなく、酒饅頭は食べないまま。

 銭湯に行こうと思ったが帰り歩くのがしんどいのでパス。うなぎを食べてひょうたんでぎょうざ買って帰る。

2016年11月14日月曜日

ジョナサン・サフラン・フォア Here I am

 9月に出版されたフォア11年ぶりの小説。映画も小説も大評判になった、9/11で父親を亡くした少年を描いた2作目の『ものすごくうるさくてありえないほど近い』の印象が強いためか気づいていない人も多いような気がしているのだが、フォアは実はユダヤ人としてのルーツへの思いのとても強い作家である。デビュー作『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』はウクライナへルーツ探しをするユダヤ系アメリカ人の話だったし、食肉産業への取材に基づくノン・フィクション『イーティング・アニマル』でも、ホロコーストサバイバーゆえに食べ物を粗末にするのを許さない祖母に触れる箇所があった。Here I amはそんなフォアのユダヤ性が横溢した作品なのだ、と、とりあえずは言ってみる。





 ワシントンDCに住むユダヤ系アメリカ人ジェイコブはテレビドラマの作家である。建築士の妻ジュリアと13歳のサムを筆頭に、マックス、ベンジーの3人の息子がいる。父アーヴは政治的なブログを書き、さらにその父アイザックは老人ホームに入所している。13歳を迎えるサムのバル・ミツヴァ―(ユダヤ教の成人式)はアイザックのたっての希望なのだが、サムは乗り気ではない。しかし、イスラエルからの親戚も呼んで行う一大行事ゆえ、アイザックとジュリアは大張り切りである。社会的にも成功し幸せそうな中産階級の家庭なのだが、そこに小さなひずみが生まれていく。

 まずはサムがユダヤ学校の机に書いた差別的な言葉。サムとジュリアはラビに呼び出され、サムは自分がやったと認めず謝罪を拒むため、バル・ミツヴァ―は棚上げになる。
 ジェイコブが隠し持っていた二代目のスマホがジュリアに見つかり、そこには性的に「不適切」ないくつものtextがあった。長い結婚生活の末お互いに閉じ込めてきた違和感のふたが開き始める。
 飼っている犬も年老いて脱糞するようになり、次男マックスは安楽死を選ぶべきだと主張する。
 サムはOther Lifeというネット上の世界に作った自分のアヴァター、サマンサに閉じこもるが、こっそりother lifeにログインしたジェイコブはあろうことかサマンサを殺してしまう。
 
 そんな折にサムのバル・ミツヴァ―に出席するためにイスラエルから、ジェイコブのまたいとこののタミールが息子を連れてやってくる。そしてその滞在中に、なんと、イスラエルでマグニチュード7.6の大地震が起こるのだ。破壊と混乱の中、かの国ならではの、常に緊張関係にある周辺国とのバランスが崩れ始める。国内では過激派がイスラム教徒の聖地Dome of Rockに火をつけ、世界中でイスラエルへの非難が高まり、宣戦が布告される。

 そしてイスラエルの首相は、世界各地のユダヤ人にhomeを守るためにイスラエルへ駆けつけよとメッセージを送るのだ。その作戦はReverse Diasporaとも呼ばれる。ジェイコブはこの作戦に参加しようとする。

 平穏に見えながら実は危ういバランスの上に成り立っていたジェイコブの家庭の崩れるさまが、大地震に見舞われてバランスを大きく狂わす中東情勢、そしてイスラエルの命運に重ねあわされる。

 イスラエルを大地震が襲うという発想には度肝を抜かれたし、非常にユダヤ的な題材に満ちた作品である。

 ジェイコブの祖父とタミールの祖父は7人兄弟のうち、唯一ホロコーストで生き残った二人である。200日間穴の中に隠れて生き残ったのだ。それは、穴の中に600日間隠れて生き延びたというエトガル・ケレットの父親と同じ体験である。そして本作で生き残った二人の兄弟は、 一人はイスラエルへ、一人はアメリカへ渡る。そこで生まれたそれぞれの孫がタミールとジェイコブである。

 この部分を読んで、これはエトガル・ケレットとサフラン・フォアであってもおかしくない関係だと思った。二人はともにホロコーストサバイバーの子孫であり、国を越えてともにお互いへの共感を表明している。

 Here I amという創世記でのアブラハムの言葉に由来する、矛盾しあう外部からの要求に対しても全身で存在することの意味、動物園に忍び込んでライオン舎に足を降ろして感じた生きていることの実感。考えることがいっぱいある。

 もっかい読もう。

2016年11月8日火曜日

第28回ユリカモメマラソン

今シーズンの初レース。先日神戸マラソン試走会に参加してフルの距離は走っているので、まあ完走はできるだろうと思うも、試走会はコンビニ休憩や信号でけっこう休めたので、レースとはまた違うわなあ、ということでキロ6分でイーブンペースで最後まで、というプラン。最初のレースだしこのくらいでよかろう。

朝、おにぎり3個、オレンジジュース。10キロで食べた酒饅頭が効いたのか最後まで(そして夜になっても)お腹すかなかった。次のフルも酒饅頭で行こう。

キロ6分てゆっくりすぎるかなと思っていたけど、30キロすぎたらそれもちょっとしんどくなったくらいなので、今はそれくらいの走力しかないってことね。

4時間18分でゴール。まあまあプラン通り。

レース前は朝からあんまり水分取らない方が向いてるのかも。トイレ行かんで済んだし。

今津まで行ってえびすの湯ってとこで風呂入り、三宮で本屋に行き、劉家荘で焼鶏を買って帰る。

次は赤穂シティマラソン(ハーフだし牡蠣が楽しみ!)を挟んでの神戸マラソン。サブ4を狙うべきか・・・。迷う。

2016年10月30日日曜日

『港のひと』



 『港のひと』に「イスラエル製ターディスのアンビな旅」というケレットさんについてエッセイを書かせてもらいました。
 
 とても素敵な冊子です。友人はとおかくんの研究室が出版社「港の人」と組んで手製本で作ったもので、手にとって、触って、読んで、常に嬉しい本です。

表紙の色も違うんだぜ。

 近著『ロケットの正午を待っている』を同社から活版印刷で出したはとちゃんは、「本」の中身だけでなくてモノとしての「本」について、メディアとしての本について真剣に考えて、重版できない活版印刷にたどり着いたのだと思います。普段本が何部売れた、重版になった、やれ増刷だ、みたいな価値観を当たり前に思っていたワタシにとっては、重版できない限られた部数の本を出すという考えは目からウロコでした。でも、それは本当に読みたい人が必死に探し出して入手する本になるかもしれない、手に入れた人が、渡された人が大事にする本になるかもしれない(本人はそんなこと言いませんが)、と思うとその希少性はとても意味があるのではないかと思えてきました。手紙ってそうだったはずで、この本は重版できないゆえに、手紙に近い極めて親密な本になったと思います。ワタシもオフィスでいろんな人に見せているし。テクストがデジタル化されていくらでも無限に複製可能になった今だからこそ余計にです。

 当冊子もそんな親密な感じが詰まっています。参加させてもらってよかったなあと思っています。

 好きな作家の木村友祐さんや後輩の加藤さんとご一緒できたのも嬉しいです。

2016年10月25日火曜日

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

 フィッツジェラルドやヘミングウェイを育てたスクリブナーズ社の名編集者マックスウェル・パーキンズと夭折した作家トマス・ウルフの関係を描く。ウルフが書きすぎる作家で冗長だったというのは有名な話で、それを刈り込んで読めるようにしたのはパーキンズだというのもアメリカ文学史ではよく出てくる話。最近ではウルフはあんまり読まれない。

 印象的だった点をいくつか。

 二作目の謝辞をパーキンズに捧げようとするウルフにパーキンズは「やめとけ」と言い、「あなたがぼくの原稿を本にしてくれた」というウルフに「ぶちこわしてしまっているのじゃないかと不安になるよ」と心情を吐露する場面がある。編集者は作家と二人三脚だが、作家に対する注文に説得力を持たすためには迷ってはいけない。自信をもってダメ出ししなくては、作家だって譲れないだろう。しかしその判断は重い。自信を持てないことだってあるだろう。その孤独な判断の重さが出ている場面だった。

 パリから帰ったウルフとパーキンズが再会する。30年代のアメリカは失業者であふれかえっている。「ぼくが書くことに意味なんかあるのかな?ぼくが書くものを必要としているのは彼らなのに、彼らは読むことができない」というウルフのことば。そのあとに二人で忍び込んだビルの屋上でパーキンズはこう言う。「太古の時代に人間たちは火を囲んで座っていた。オオカミに襲われるんじゃないかと怖がって。そこで誰かがお話を始めた。みんながこわがらなくてもいいように」。人間は火を使い始めてサルではなくなったとよく言われるが、その火のそばには「お話」があった。それは怖さから身を守るためのものだった。暗い中でも語ることで誰かが救われるかもしれない。そんな文学の役割はいつも変わらない。今も変わらない。

 作品が書けなくなってゼルダも精神を病んだのちのフィッツジェラルドが何度か出てくる。そのフィッツジェラルドに対して傲慢なウルフは「お前の小説は短かすぎる」なんて言う。「もう数年書いてないだろ。ちゃんと書け」と。これは切ない。人の痛みの分からないウルフにパーキンズはキレる。 「お前は今日何語書いたんだ?彼はいい日でも100語しか書けないんだぞ!」と。書けなくなった作家なのに、パーキンズはフィッツジェラルドを見捨てない。

 だからフィッツジェラルドもその恩を忘れない。のちにハリウッドで脚本書きをしているフィッツジェラルドのもとにやってきたウルフはパーキンズのことを悪しざまに言うが、フィッツジェラルドは「恥を知れ!」と怒る。彼にはgenius for friendshipがあるんだ、お前はそれを裏切った、と。

 映画の原題はgeniusで、見る前は「天才」ってのはウルフのこと?あるいは天才編集者パーキンズってこと?って思っていたが、この「才能」のことだったのか。ウルフには作家としての才能がありパーキンズには編集者としての、そして友情の才能があった。geniusの形はひとそれぞれだ。

 この場面でフィッツジェラルドが「去年のギャツビーの印税は2ドルちょいだ」みたいに言う場面、これまた切ない。なのだが、死んだ後にも読まれるかどうかが気になるんだ、というウルフに対してフィッツジェラルドは「俺も若いころはそうだった。でも今はただいい文章を書きたいと思っている」と答える。

そして今でもギャツビーは読まれている。なんだかフィッツジェラルドへの愛がある感じ。

いい映画でした。
 

2016年10月23日日曜日

Sayed Kashua, Second Person Singular

 以前エトガル・ケレットとの往復書簡を訳したことのあるアラブ系イスラエル人作家サイイド・カシューアの小説を(英訳で)ようやく読んだ。
 

 カシューアはアラブ系のイスラエル人で、ヘブライ語作家であるが、2014年夏のイスラエルのガザ侵攻に伴って高まったアラブ系市民への敵意を憂慮し、家族を守るためにアメリカへの移住を決意する。二級市民扱いをされながらも同化しようとしてきた母国、その母国と作家としての唯一使える言語であるヘブライ語を捨てざるを得ないカシューアの苦境はとてもショッキングなもので、さらには彼の移住先が私もゆかりのあるイリノイ州はアーバナ・シャンぺーンということもあって、私も非常に心が痛んだ。そのカシューアの2010年の小説である。

 物語は弁護士として活躍し、裕福な暮らしを誇るアラブ系イスラエル人が、古書店で買った本に挟まれた妻の筆跡のメモを発端に、妻の不貞を疑って事実を突き止めんとする話と、同じくアラブ系イスラエル人であるがもっと恵まれない境遇にあるアミールというソーシャルワーカーが、ユダヤ人家庭の植物状態の男ヨナタンの介護をする話とで交互に進んでいく。

 弁護士は裕福だが、同じように裕福なアラブ系ユダヤ人たちとのスノッブな裕福さ自慢に疲れている。最高級の寿司を買ってホームパーティを催し、気取ったディベートをする。本屋に行っても『チーズはどこに行った?』を買うのは恥ずかしく、ヒップな趣味のよさを演出するために古典を買うときは誰かへのプレゼントのふりをするまでに自意識にまみれている(ちなみにそんなヒップな趣味の一例としてイタロ・カルヴィーノとともにMurakamiが使われている)。

 アミールの方もまた自意識で身動きの取れないタイプで、ダンスパーティに女性と行ったのを職場の同僚にみられただけで帰ってしまう。そんな彼が植物状態のヨナタンの世話をし、彼の本を読み、音楽を聞き、そして彼の部屋にあったカメラを持ち出す。残されたフィルムに映っていたのはこうなる前のヨナタンの最後の瞬間であった。

 アミールはヨナタンの服を着て、ヨナタンになっていく。写真学校に通い、IDを書き換える。ヨナタンの母もそれを止めはしない。ベッド上のヨナタンが消えればアミールは完全にヨナタンとなる。

 Passingの問題はアメリカ文学でも黒人が白人としてpassする話(フォークナーのジョー―・クリスマスとか)としてアイデンティティの問題としてよく扱われるテーマであるが、アラブ人がユダヤ人としてそんな簡単に通るものなのか?という疑問が浮かぶ。

 物語自体は弁護士の妻の不倫の謎を中心に謎解きのサスペンスで進んでいくので引き込まれるのだが、ただ、このメモにしても、たとえ妻の筆跡であっても必ずしも不倫ではないんじゃないか?古書店で買った本に挟まっていたというのはできすぎではないか?とか多少の引っ掛かりはある。

 とはいえ、異国イスラエルの小説で複雑なアイデンティティの問題を扱い、その背景も描かれているのは勉強になった。

 そういえばイスラエルのアラブ人社会は描かれるけど、マジョリティであるユダヤ人の世界はあまり描かれていなかったなあ。

 二つの物語は、弁護士の章が3人称、アミールの章が1人称と人称を変えて展開する。タイトルはそこに由来するのだろう。二人称単数といえば「あなた」ということだけど、3人称と1人称の間にあって、この話で言えばそれはヨナタンのことか、singularというのは「単数」で、アミールとヨナタンが「ひとつ」になることか、でもindividualの意味もあるから、それぞれ別なのだ、みたいな含意もあるのかな、なんて思った。また読みたい。