ポール・ラファージ著『失踪者たちの画家』(柴田元幸訳)を読む。
「幻想的」とはこういうのを言うのだろうか。全体的にぼわーっとしてて細部がよくわからない。いつ・どこの話なのかもよくわからない。
ジェームズとフランクという二人組の男性が出てきて3人姉妹と出会う。ジェームズはその一人と駆け落ちしてしまう。フランクのお金を持って。となると読者
の興味からいって、普通このジェームスの行方をたどるお話になりそうなものだが、そうはならない。フランクはお金がなくなったことを気にしないし、ジェー
ムズは気づいたら戻ってきている。
フランクはプルーデンスという女性を好きになり、彼女の写真撮影について行く。しかしプルーデンスはいなくなってしまう。失踪者となってしまうのだ。フランクは彼女を探すが、これも見つけることはない。フランクはなぜか逮捕されたり、裁判で自分を告訴してみたりする。
物語の展開が常に予測を裏切って脱臼していくような印象。不思議な小説だ。
プルーデンスは死体の写真を撮り、警察に報告する。その写真は「死」があったことの証拠となる。フランクは絵を描くが、絵で死体を描いてみたところでそれ
は証拠にはならない。だから写真でできることが絵ではできない。その一方で、フランクは失踪者たちの絵を描く。探している人から聞いた情報をもとに人を描
く。いないいひとを描くのだ。これは写真には出来ない。
というように、「あること」「ないこと」、「あることがないこと」「ないことがあること」のお話ではないかと思った。
There is nothing.
と
言った時に、そこには「なにもない」のか、はたまた「なにもない」状態が「ある」のか?このブログのタイトルもそうだ。On the road to
nowhere は「どこにも行かない」のか「どこでもない場所」に「行く」のか?そういう「不在」が「存在」することをめぐるお話ではなかろうか。
プルーデンスの写真は「存在する(ある)」死体を写す。しかし死体はモノとしては存在しても命が「ない」。フランクは「いない」人々を描く。しかし彼らはここにいないだけであって、どこかには「存在する(ある)」。事態は複雑だ。
そもそもの小説という技法じたい、「ない」ものを「ある」かのように書くものだということを思い出した。
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