2014年1月31日金曜日

Paul Auster, Report from the Interior

 人間、時間が経てば年を取る。若いうちはそれは「成長」である。昨日届かなかった木の枝に手が届くようになる。できなかった逆上がりができるようになる。嬉しい。しかし成長はいつか止まる。それでも時間は流れるのであって、そこからは、かつてはできていたことができなくなっていく。老いである。

 「成長」とは麻薬だ。心地いい。人間、自分が成長していると信じられているうちは幸福でいられる。「経済成長」という神話にしてもそうだ。成長は決して常態ではないはずなのに、ぼくらは成長が当たり前で、それがなくなることは大変なことだと思っている。右肩上がりでないといけないと思っている。そんなことは不可能なのに。

 「成長」という麻薬が切れた時、人間はそれまでとは異なった心の構えを必要とするのだと思うし、それをうまく受け止めることが「成熟」なのだろう。

 たとえば数十年前に書いた自分の文章を読んで、その稚拙さに驚くというのは「成長」したからこそであろうが、と同時に、そこにあるむきだしの熱意を目の当たりにしてたじろぐようなこともあるだろう。それはもはや自分には書けないものだ。かつての「私」は今の「私」と地続きであるという意味では「私」であるけれど、もはや同じものが書けない「今の私」がその「かつての私」を同じく「私」と呼ぶには距離がありすぎる。しかし、「彼」ではない。第三者として三人称に切り離してしまうには愛おしすぎる存在。共に生きてきた同志のような存在。だからこそ「きみ」なのではないか。


 Paul Auster の自伝的エッセイ Report from the Interior では、前作 Winter Journal に続いて二人称"you"の語りが取られる。Winter Journal は「身体」の来歴の物語であったのに対してこちらは「心」の来歴である。

 全体は4部で構成され、そのすべてが徹底して自身の過去を扱ったものだ。第一セクションのエッセイ部分"Report from the Interior"は幼少期からの様々な思考をたどったもの。第2セクション"Two Blows to the Head"は、それぞれ10歳、14歳の頃に見てガツンと来た二本の映画(『縮みゆく人間』と『仮面の米国』)の語り直しである。第3セクション"Time Capsule"は、コロンビア大学の学生だった頃に、当時の恋人で前妻のLydia Davisにあてて送った手紙の抜粋で、最後のセクションはこれらの内容に関連した写真を収めた"Album"である。

 "Time Capsule"のきっかけは、Austerと同じように(Austerの原稿はNYPLのBerg Collectionに収められている)自分の原稿を図書館アーカイブに収めようとしたDavisからの、昔の手紙が出てきたのだけどどうしたらいいか? という連絡だったという。20歳そこそこの自分が書いた手紙を読む60代半ばの男。手紙の中のAusterは、貧しく、フラストレーションを抱え、それでもものを書くという行為に一貫してひたむきである。きっと「きみ」の手によるこの手紙のような文章は、今のAusterには書けないものだし、だからこそそれを活字にしたのだろう。

 これまで『孤独の発明』や『その日暮らし』といった自伝的なエッセイをすでに発表してきているにも関わらず、本作の前身である Winter Journal (2012)が読みごたえがあったのは、それがある意味「父の話」だった『孤独の発明』と対をなす「母の話」であったことや、「身体」の変化、ひいては「老い」という問題を正面から見据えていたからではないかと思うが、Report form the Interior はそこまで徹底していないし、4つのセクションの構成には散漫な印象も受ける。

 たとえば映画の語り直しは『闇の中の男』や『サンセット・パーク』でもあったが、『幻影の書』での映画の語り直しのように、「ない」映画をあたかも「ある」かのように語るのと、本当に「ある」映画を語り直すのは意味合いが違うし、それが小説の中で主題的なものとして描かれているならば(たとえば『闇の中の男』での『東京物語』がそうだろう)語り直す意味もあろうが、本書でのようにむきだしで語り直されても、まず「映画は映画で見ればいいのではないか、なぜ批評ではなく語り直しなのか」と思ってしまうし、感じるのはAuster本人が、こうやって映画のプロットやカットを語るのが本当に好きなのだなあ、ということくらいである。

 とはいえ、その語り直しはやはりうまく、ときとして挟まれる解釈的なコメントも絶妙で、やはりAusterにしか書けないものだと思う。『仮面の米国』で主人公の危機の場面に反復されるハンバーガーを食べるという行為に着目したり、「なにか大きな仕事をしたい」と橋の設計・建設の道に進んだ主人公が、刑務所からの逃走場面で追っ手を遮るためにダイナマイトで「橋」を爆破することの皮肉を指摘してみせたり。

 オースターの初期小説『最後の物たちの国で』で、主人公のアンナが書く手紙の文字がどんどん小さくなっていくという描写がある。紙がなくなってきたので文字を小さくしていくのだ。現実的には小さい文字はいつか判読不能な黒点になる。しかし理論上は、文字を小さくし続ける限り、紙の余白は埋め尽くされることがない。このパラドクスの美しさが好きなのだが、本書でもオースターの実際の手紙で、紙がないから文字が小さくなっていくという箇所があるし、オースターが語り直している映画『縮みゆく人間』は、主人公が放射能と農薬の影響でどんどん小さくなっていって、最後には目に見えない微粒子となろうとも、それでも消滅はしないというメッセージを持っている。"To God there is no zero. I still exist!" と彼は叫ぶのだ。こういったのちの作品に表出した思想の起源みたいなものが読み取れるのがファンには面白いところである。

 同じように興味深いのが、自身のユダヤ人という人種的特性を発見するところ。オースターは戦後生まれだしアメリカ生まれだが、それでもナチスによる迫害の記憶は新しく、自分が自分であると言うだけで暴力的な他者から殺されかねなかったという歴史の発見は、衝撃だったに違いない。ユダヤ人のアウトサイダー性、homeにいてもそこを完全にhomeだとはみなせないという居場所の不確かさ、同じように居場所が不確かなアフリカ系やネイティブ・アメリカンへの共感、ひいてはすべての"outcast"たちへの共感、そういったものの起源を読み取ることも可能だろう。

 『孤独の発明』でわずかに触れられたエピソードでもあるが、小学校の頃「ユダ公」とからかわれたオースター少年は、学校でクリスマスのお祝いに出席してクリスマスキャロルを歌うのを拒み、ひとり教室に残る。その描写がいい。

机に向かって座ると、突然きみのまわりは静寂に包まれ、文字盤がローマ数字になっている古い時計の分針が時を刻むカチッという音が響く。きみはポーを、スティーブンソンを、コナン・ドイルを読んでいる。頑固にも自分の意見を主張し、それでも誇り高く、その頑固さに、自分では無い誰かであるふりをするのを拒んだその頑固さに誇りをもち、自ら宣言して追放者となったきみは。(73)

 ユダヤ人であるがゆえにどこにも十全たるhomeがないことを自覚した少年時代のオースターは、ひとり教室に残り、普段はクラスメイトたちで騒がしい教室が静まりかえったなか、たったひとりで座っている。しかしその傍らには書物がある。

 本の世界、たぶんそれこそが彼にとってのhomeとなった。outcastしかいないような場所。

 そして彼は作家になった。



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