2015年11月18日水曜日

リチャード・パワーズ 『オルフェオ』

 パワーズ最新作。遺伝子に音楽を書き込もうとする日曜科学者がテロリストの嫌疑を受けて逃亡する。逃避行と並行して、音楽家としての彼の来し方が再現される。

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 パワーズにしては珍しく物語の構造が単線的で、複数の話をあっと驚く仕掛けて絡み合わせることはない。
 冒頭の愛犬フィデリオのエピソードからグッと来る。歌うことを好む犬とはなにか?そもそも「歌う」とはなにか?鳴くこととは違うのか?音楽を奏でる発声が「歌う」ことだとするならば、では「音楽」とはなにか?音の知覚が異なる動物には別の「音楽」があるはずではないか?

エルズがフィデリオと同じ音階に移動すると犬は半音、上がるか下がるかする。人の声が和音で響くと、犬はそこにない音で鳴く。集団がどんな和声を響かせても、フィデリオは必ずそこにない音を探り当てる。

和音が心地よいのはあくまで人間の知覚においてであり、フィデリオはそこにない音をこそ好み、歌うのだ。ここで音楽の謎をめぐる物語が予感される。しかし、そうはならない。退場した犬は戻らず、あとはヒトの話である。

正直な感想を記すなら、ラスト50頁くらいまであまり物語に入れないままであった。エルズがパーキンソン病の治験中のリチャードと再会するところから物語が動き出し、そこでようやく引きこまれたが、そこまでは、音楽の描写は迫力はあるけど、まず音楽理論の知識がないのでなんのことやらわからない、という事態が頻発、かつ物語上の出来事についても比喩やひねった言い回しであえて直接的な表現をしていない箇所が多いため、しょっちゅう話を見失うこととなる。遺伝子に音楽を書き込む、ということじたいいまだに具体的にどういうことなのかわからないままだ。

読み終わって思ったのは、この小説は読む人を選ぶ作品だということだ。音楽の理論的知識、歴史的背景をリテラシーとして持っている人たちには、この音楽描写で音が聞こえるのだろう。うらやましい。ワタシのような「第二倍音」「短三度」「喜歌劇」さえ解さない読者にはなかなか音楽は鳴らない。だからわかりやすかったとは言えない。
 
しかしだからといって本作が評価できないわけではない。
 
むしろこの作品はワタシにはとても魅力的に映った。とてつもなく頭がよく、すべてを緻密に整えて破綻しない印象のあるパワーズが、とにかく音楽へのあふれんばかりの愛を横溢させ、読者がついて来ようが来まいが関係なく突っ走っている感じがしたのだ。「いや、俺は音楽すきやから少しの人にしかわからんでも好きな音楽のこと詰め込んだるねん!」と。だとしたら、それに関してはもう全面的に支持、「いいぞ、やれやれ!」って感じなのである。人に理解されなくとも、「でもやるんだよ!」である。それは、理解者がいなくとも実験的で先鋭的な音楽を追求し、最愛の妻からさえ支持されなくなった主人公のエルズの姿とも重なる。常人には感知できない芸術が「聞こえてしまう」「見えてしまう」「わかってしまう」天才の孤独を、同じ孤独を抱える天才が描いて見せたのだ。天才ではない読者はただただ圧倒されればよい。

しかし圧倒されるだけではすまない読者が一人だけいて、それが本書を日本の読者に届けてくれた翻訳者である。ワタシのような気楽な読者は「音楽のことわからないから聞こえない」で済むけれど、彼だけはすべての音を聞こえるまで耳を澄まし、聞き取らねばならない。これだけの博覧強記によくぞ伴走(伴奏?)したものだと、改めて敬服。

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