表紙をぱっと見て「ん?SEALDs特集?」と勘違い。よく見ると同志社の藤井さんがいて「あ、藤井さん、そっちもがんばってるのかぁ」とまだ勘違い。中身を読むと表紙の人たち、実はそうそうたる面々で、日本の外国文学研究を担う若くてすごい方たちでした。ダムロッシュの翻訳をされた秋草さん、クロアチアの亀田さん、バスクの金子さん、ドイツの浅井さん、トルコの宮下さんは昨日ちょうどオルハン・パムクのことを調べて名前をお見かけしていて、みなさん面識はないけどワタシでも名前は聞いたことのあるご活躍の方々である。みなさん若いし、いろんなものをよく読んでるなあと感心。
中身も充実していてそれぞれの専門地域のおすすめ作家が日本語訳で読めるという豪華版。ワタシが学生だったら小躍りして喜んで読んだと思う。
なかでもおもしろく読んだのがラテンアメリカの松本さんが訳されたグァテマラのエドゥアルド・ハルフォン。世界文学特集で取り上げられた短編の中にかつてのキャノン的「世界文学」が入れ子ではいってる。大学を突然辞めた学生のもとを教師は訪ねる。文学は誰のものか?ほんとはここにあるべきじゃないのか?
大学に文学部いりますか?みたいな世知辛い日本の状況と相まって、「文学」の場所について考える。「言葉の三つ編み」はあらゆる人が編めるものとして開かれていてほしい。
最近外国文学をこうやって本格的に紹介してくれる媒体って少ないから大変ありがたい。まとめる藤井さんの手腕も見事。これは買って損はない。
ワタシもケレットについてちびっとだけ書いてます。
夏にLAの空港の本屋を見たとき、英米の作家に交じってKeretやMurakamiといった海外の目ぼしい作家も並んでて「世界文学ってここか」とちょうど思ったとこだったので今回の「国際線ターミナル」というフレーズは、まさしく、という感じだったのだけど、でもこれあくまで「英語で読める世界文学」だよなあともそのとき思った。マイナーな言語で書いている作家が英訳されて広く読者を獲得するのは良いことだけど、結局はグローバリゼーションの文学版で、資本のあるアメリカの大きな出版社や英語という強大な言語によって周縁が取り込まれていっているだけならばまずいんでないかと。グローバリゼーションによって世界がのっぺりと均されてどこの国行ってもモールに同じ店が並ぶように、それによって、「世界文学」が世界中どこ行っても限られたワンセットの作家たちってことになるならそれは豊かじゃないなあと。でもきっと今、そうなりつつあるのだろう。多くのマイナーな言語の作家が英訳され、彼らはアメリカに渡ってリーディングやイベントに参加する。当然アメリカの市場や英語に訳されることを意識してローカル・カラーを控えることも出てくるだろう。そして英訳が出ることが世界的に評価されたり出版されたりすることの不可欠な要素になっているとするならば、アメリカや英語は、そこを通らずにはどこにも行くことができない巨大なハブ空港の役割を果たすことになる。他の言語はからっきしダメでかろうじて英語が多少読める程度のワタシはそのハブ空港で覗き見して、あれがおもしろいこれが好き、とやっている。でもきっと世界にはハブ空港を使わずに単独飛行している小さなセスナがたくさんいる。それを見たい。藤井さんは本誌所収のエッセイでターミナルに対する「荒れ地」の可能性を提唱している。荒れ地にはセスナからでさえ見えない地べたの視点があるだろう。それが見たい。世界が縮んでしまった?でも足元の小さな虫たちの世界は「世界」より濃密でおもしろいかもしれない。それが見たい。
ケモノを探してモノノケに会ってみたい。
しかし本号の一番のおすすめは、坪内逍遥大賞奨励賞を受賞された福永さんの特別寄稿だと思ふ。変わらず快調にふざけていて、「書くことがなくても書くことはできる」の見事な実践だと思ふ。みなも買ったらよろしいと思ふ。おすすめです!と思ふ。
先日ゼミ生と飲んだ時福永さんの話になって、「福永さん、今なにしてるんかなぁ、って思う時があるのよ」って話をしたら学生に「恋や!恋!」と突っ込まれた。かもしれない、と思ふ。
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