『その名にちなんで』などで知られるジュンパ・ラヒリのエッセイと短編が収録された本であるが、イタリア語からの翻訳である。そこがおもしろいところ。他者の言語であるイタリア語に憧れ、学び、イタリアに住み、そしてその言語で書く。
ラヒリのイタリア語への思いは一方的な片思いであり、その習得も、たとえば移民や難民にとってそうであるような、身につけなければ生きていけないような必要に迫られたものではない。
その言語によって育てられた経験に基づく内在化された文法を持たず、学習によって習得する言語には、どこまで行っても縮まらない距離が存在する。ラヒリは書く。
「イタリア語できれいな文を作り出すことがあったとしても、それがどうして美しいのか正しく理解できない」。
これはすべての外国文学研究者が持ち続ける間隔ではないか。その言語を母語とするものにしかわからない機微を読み逃してしまうのではないか、という不安はつねに外国語文学者につきまとう。ネイティヴによって自分の読み方が「違う」と否定される可能性はつねにあり、どれだけ学んでも外国語との間の距離はゼロにはならない。
ラヒリはそれでも書く。その理由は、彼女自身の言によるなら、移民2世という出自によるものだ。ベンガル語という両親の母語であり家庭内で使用される言語と、英語という生まれ育った場所の限ン語の双方の「どちらとも一体になれなかった」ゆえである。だから彼女は「生まれてからずっと、自分の原点の空白から離れようとしてきた」。そしてそのいま空白を、自分の外部で埋めようとしているのだ。
そして我々日本の読者が直面するもうひとつの距離は(そして複雑なことに本書の英訳版を読む、彼女の母語である英語で読む読者にとってもそうなのだが)ラヒリの手によるテクストが日本語になるには、さらに「翻訳」というプロセスを経ているということにある。書いた本人でもその美しさが理解できない文章を、さらに加工されたものでしか我々は読むことができない。と同時にそれはラヒリ自身にとっても、彼女のイタリア読者にとっても、翻訳を通して読む我々のような読者にとっても、すべての人にとって外国語であるような言語だとも言えるだろう。
そして文章の美しさはわからなくとも、英語とイタリア語の二つの言語を、年の離れた二人の子に喩え「ずっと弟のままではいるだろうが、この華奢な子は何とかやっていける。長男のおかげで、わたしは次男を見たり、その声を聞いたりできるし、少しほれぼれとしてしまうことさえできる」と書くラヒリのレトリックには、やはり類まれな文学的センスがあるのだと気づかされる。
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