エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』が出版されてひと月が経ちました。この本を、そしてケレットさんを気に入ってくれて、大事に大事に読んでくださっている読者の皆様の声をネットや生で頂戴して大変うれしく思っております。なるほどそう読めるかーと、気づかされることも多く、いち読者でもある訳者としては、とても豊かな経験をさせてもらっているなあと感謝の気持ちでいっぱいです。
紙媒体でも各所で取り上げてくださっておりまして、おそらくはこんなに速くこんなに多くの書評が出るというのはとてもラッキーなのではないかと思います。情報を共有するためにここまで出た書評をリストアップして、都度更新していきたいと思います。載っていないものがありましたら、コメントで教えていただけたりするととても助かります。よろしくおねがいします。
・西加奈子さん 「勇気の書」(『波』 2016年5月号)
・湯川豊さん (『毎日新聞』 2016年5月22日)
・松田青子さん 「日常が歪む瞬間」 (『毎日新聞』 2016年5月25日夕刊)
・豊崎由美さん 「天才と呼ばれた作家のマジカルな日々」 (『週刊新潮』 2016年6月2日号)
・『エル・ジャポン』 2016年7月号
・倉本さおりさん 「タフなユーモアが描き出す「イスラエル」という日常」 (『週刊金曜日』 2016年5月27日号)
・岡崎武志さん 『サンデー毎日』(2016年6月12日号)
・円城塔さん 「笑いと日常 その陰にあるもの」(『朝日新聞』 2016年6月12日)※6.12追記
・藤井光さん 「ポケットに入れたい言葉」(『京都新聞』 2016年6月26日)※7.1追記
なかでも倉本さんの書評は本作をとても深く読んでくれていて感銘を受けました。私たちがつねに使っていながらときとしてその重みを忘れてしまう「ことば」について書いてくださっており、最後は次の一文で結ばれています。
「その優しい、切実な祈りに、私たちは言葉の使い方を学び直すべきなのだろう」
もう一点、とても機知に富んだ記事を書いてくださっているブログを見つけました。 『未翻訳ブックレビュー』さんが本書の「架空の賛辞」を作ってくれています。これが、もうほんとにうまい!まるでケレットさんの掌編小説のようにコンパクトで、笑えて、そして深遠。本書のファンの皆さんなら確実に気に入ることと思います。7つの「架空の賛辞」、いずれも甲乙つけがたいですが、とくに4番目のカフカとヴォネガットとカーヴァ―のやつ、ピリッと辛みが効いてていいなあ。読んでみてほしいです。
(※『未翻訳ブックレビュー』様 コメント欄がなかったのでリンクのお願いができませんでした。勝手にリンクしてすみません。万が一問題がある場合はリンクを消しますので、コメント欄でご連絡いただければ幸いです)
2016年6月2日木曜日
2016年6月1日水曜日
エトガル・ケレットの魔法と文化的配管工
拙訳のエトガル・ケレット著『あの素晴らしき七年』が出て、日本の潜在的ケレットファン全てに届いてほしい!と毎日願いながら過ごしている。きっと好きな人たくさんいると思うんだ。
もともと英訳で短編を読んで、「あー呼ばれてるな」と思って、自分でもそれまでにないほど使命感を感じて売り込んだ(そのあたりの事情は過去記事へ。「エトガル・ケレットのこと」、「エトガルと新宿で 1」 「エトガルと新宿で 2」 「エトガルと新宿で 3」)。
エトガル本人に会い、メールのやり取りが始まり、本書のいくつかの章となったエッセイを日本で翻訳してどこかに出して欲しいという話になって、勢い込んで売り込んだものの、半年頑張っても目が開かず、じりじりする思いでいた。それでも、なんとかしなければ!という思いが続いたその気持ちは今まで感じたことがなかったもので、多分それは最初に"crazy glue"を読んだときからぼくがエトガルの魔法にかかっているからなのだと思う。
魔法の効果はてきめんで、未だにぼくはその幸福な魔法にかかったままだ。作品を読むたびにますます好きになり、本人に会うたびにますます使命感に駆られる。こんなワクワクする経験、今までなかった。
そしてエトガルの魔法は日本の読者にさらなる魔法をかけていく。
ぼくと同じように「あー、呼ばれてるわ」と思う人たち、思う存分幸福な魔法に身を委ねて欲しい。
作家の西加奈子さんもそんな一人かもしれない。『波』に掲載された書評「勇気の書」で本書を絶賛してくださっている。書いた作品を読むより先に本人に出会ってファンになり、そして本書を読まれて「これはエトガル・ケレットそのものだ」と思われたというエピソードは、やはりケレットならではの魔法を雄弁に語っていると思う。
書くものも魅力的で、『あの素晴らしき七年』を読めば多くの読者はきっとこの語り手のことを好きになってしまうと思うし、また本人に会ったら会ったで、なんかこの人のためにしたい!と思ってしまう。そういう魅力がケレットにはある。
サービス精神も一つの理由だろう。読者ごとに異なったイラストのサインをしてくれるような作家はそうそういない。
今回の翻訳の出版時にはタイミングが合わなくて来日が叶わなかったが、かわりにこんなビデオを送ってきてくれた。
並みの作家は普通そこまでやらない。やる必要がない。でも、ケレットはやっちゃうんだ。作家がここまでやってくれたら、ここまでの熱意を見せられたら、まわりの人間もがんばんなきゃって気になる。それが楽しい。まわりを幸せにしてしまう不思議な力が、この人にはあるんだよなあ。
翻訳をしながら頭の中にあったのは一本のパイプだった。エトガルの最初の短編は「パイプ」(『早稲田文学』)だし、その短編が生まれたいきさつを書いた「ぼくの初めての小説」で、プリントアウトして兄ちゃんに読んでもらってゴミ箱に捨てられた原稿を「パイプ」と表現していたことも頭にあったのかもしれない。
自分ができることはなんなのか、と考えた時に、こうして面白いと思った作家や作品を、今はまだ届かずにいるけどきっと必要としている人に届かせるための、細いかもしれないけれどパイプを一本渡すことだと思った。太い土管をたくさんつなぐことはできなくとも、細くとも一本繋がればそこからパイプは増えていくかもしれない。そんな文化的な配管工でいたいと思った。
そう思わせてくれたエトガル・ケレットの魔法、どうにも、まだまだ、覚めそうにない。
本人のスケジュール上の都合もあって、そしてこちらのお金の問題もあって、だいぶ先になるのだが、2018年の3月頃にはエトガルと奥さんのシーラを甲南大学に呼んで、映画のスクリーニングとトークのイベントを催したいと現在画策中。
日本全国から魔法にかかったみなさんが来てくれたら嬉しいです。
もともと英訳で短編を読んで、「あー呼ばれてるな」と思って、自分でもそれまでにないほど使命感を感じて売り込んだ(そのあたりの事情は過去記事へ。「エトガル・ケレットのこと」、「エトガルと新宿で 1」 「エトガルと新宿で 2」 「エトガルと新宿で 3」)。
エトガル本人に会い、メールのやり取りが始まり、本書のいくつかの章となったエッセイを日本で翻訳してどこかに出して欲しいという話になって、勢い込んで売り込んだものの、半年頑張っても目が開かず、じりじりする思いでいた。それでも、なんとかしなければ!という思いが続いたその気持ちは今まで感じたことがなかったもので、多分それは最初に"crazy glue"を読んだときからぼくがエトガルの魔法にかかっているからなのだと思う。
魔法の効果はてきめんで、未だにぼくはその幸福な魔法にかかったままだ。作品を読むたびにますます好きになり、本人に会うたびにますます使命感に駆られる。こんなワクワクする経験、今までなかった。
そしてエトガルの魔法は日本の読者にさらなる魔法をかけていく。
ぼくと同じように「あー、呼ばれてるわ」と思う人たち、思う存分幸福な魔法に身を委ねて欲しい。
作家の西加奈子さんもそんな一人かもしれない。『波』に掲載された書評「勇気の書」で本書を絶賛してくださっている。書いた作品を読むより先に本人に出会ってファンになり、そして本書を読まれて「これはエトガル・ケレットそのものだ」と思われたというエピソードは、やはりケレットならではの魔法を雄弁に語っていると思う。
書くものも魅力的で、『あの素晴らしき七年』を読めば多くの読者はきっとこの語り手のことを好きになってしまうと思うし、また本人に会ったら会ったで、なんかこの人のためにしたい!と思ってしまう。そういう魅力がケレットにはある。
サービス精神も一つの理由だろう。読者ごとに異なったイラストのサインをしてくれるような作家はそうそういない。
今回の翻訳の出版時にはタイミングが合わなくて来日が叶わなかったが、かわりにこんなビデオを送ってきてくれた。
並みの作家は普通そこまでやらない。やる必要がない。でも、ケレットはやっちゃうんだ。作家がここまでやってくれたら、ここまでの熱意を見せられたら、まわりの人間もがんばんなきゃって気になる。それが楽しい。まわりを幸せにしてしまう不思議な力が、この人にはあるんだよなあ。
翻訳をしながら頭の中にあったのは一本のパイプだった。エトガルの最初の短編は「パイプ」(『早稲田文学』)だし、その短編が生まれたいきさつを書いた「ぼくの初めての小説」で、プリントアウトして兄ちゃんに読んでもらってゴミ箱に捨てられた原稿を「パイプ」と表現していたことも頭にあったのかもしれない。
自分ができることはなんなのか、と考えた時に、こうして面白いと思った作家や作品を、今はまだ届かずにいるけどきっと必要としている人に届かせるための、細いかもしれないけれどパイプを一本渡すことだと思った。太い土管をたくさんつなぐことはできなくとも、細くとも一本繋がればそこからパイプは増えていくかもしれない。そんな文化的な配管工でいたいと思った。
そう思わせてくれたエトガル・ケレットの魔法、どうにも、まだまだ、覚めそうにない。
本人のスケジュール上の都合もあって、そしてこちらのお金の問題もあって、だいぶ先になるのだが、2018年の3月頃にはエトガルと奥さんのシーラを甲南大学に呼んで、映画のスクリーニングとトークのイベントを催したいと現在画策中。
日本全国から魔法にかかったみなさんが来てくれたら嬉しいです。
2016年5月27日金曜日
ひとりトモフat神戸マージ―ビート
昨年10月「夢半島千葉ナイト」ではじめてうごくトモフを見て衝撃を受け、年末にはAKASOにバンドトモフを見に行きすっかりトモフづいている。もちろんCDはずっと聞いているし、音楽はトモフとピーズと水戸華之介があればいいってかんじではあったのだが、ライブづいているのである。今回は初のひとりトモフ。ひとりってどんなんかな?ギター弾き語りか?といろいろ未知のまま、昨年買ったSHAAAA!Tシャツを着て出陣。「夢半島千葉ナイト」で買った紺のTシャツはサイズがなくて無理やりSを買ったのだがやはりぴっちぴちで入らなくて、それでこのSHAAAA!を買ったものの、ピンクでかわいらしいかんじだし、こちらは腹が肥えてるしであまりに似合わないのであるが。
会場入るとすでにステージ上にトモフ。最初の曲なんだったっけ?
今日のテーマは「先日の横浜でのバンドトモフに勝つ!」とのことで同じセットリストを一人でやるという。ギター弾き語り+バスドラ、途中カラオケもあり、観客によるコーラス録音もあり、楽しい。どんどん引き込まれていく。
この人のライブの仕事の多さってもっと知られるべきだと思う。楽器弾いて歌って、合間にはおしゃべりで客を笑わせ、踊りまくり跳ね回る。休憩一切なし。全部ひとりで対峙してそのうえ客を満足させる。プロである。本当のプロだ。
6月にはアルバムを完成させるとのことで、タイトルはこのTシャツらしい。
終盤に向かうにつれてどんどんトモフの多幸感がこちらに伝染してきて、しかも二度目のアンコールは「一日が終わる」から「ほめてよ」、そして「終わらない映画」と大好きな名曲3連発で、もう最後の「終わらない映画」での盛り上がりまでただただ幸せな時間であった。楽しかったなあ。
さらには最後に今日神戸までくる新幹線で作ったという新曲「待ってらんない」がお披露目&聴衆との合唱で幕を閉じた。
やっぱりトモフはいいなあ。曲もいいしライブもいい。
次もまた行こうと思う。
トモフが「どんなズボンをはいていたとしても!」
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昨年ニャオルとともに買ったこのTシャツは似合うはずだが残念ながらサイズが違う |
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そしてこちらはサイズはOKだがかわいらしくて小太りのオッサンには荷が重い |
会場入るとすでにステージ上にトモフ。最初の曲なんだったっけ?
今日のテーマは「先日の横浜でのバンドトモフに勝つ!」とのことで同じセットリストを一人でやるという。ギター弾き語り+バスドラ、途中カラオケもあり、観客によるコーラス録音もあり、楽しい。どんどん引き込まれていく。
この人のライブの仕事の多さってもっと知られるべきだと思う。楽器弾いて歌って、合間にはおしゃべりで客を笑わせ、踊りまくり跳ね回る。休憩一切なし。全部ひとりで対峙してそのうえ客を満足させる。プロである。本当のプロだ。
6月にはアルバムを完成させるとのことで、タイトルはこのTシャツらしい。
終盤に向かうにつれてどんどんトモフの多幸感がこちらに伝染してきて、しかも二度目のアンコールは「一日が終わる」から「ほめてよ」、そして「終わらない映画」と大好きな名曲3連発で、もう最後の「終わらない映画」での盛り上がりまでただただ幸せな時間であった。楽しかったなあ。
さらには最後に今日神戸までくる新幹線で作ったという新曲「待ってらんない」がお披露目&聴衆との合唱で幕を閉じた。
やっぱりトモフはいいなあ。曲もいいしライブもいい。
次もまた行こうと思う。
トモフが「どんなズボンをはいていたとしても!」
2016年4月29日金曜日
甲南大学生協書籍部
うちの大学の生協書籍部、サイコーであります。
拙訳のエトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』(新潮クレスト・ブックス)の発売に際して、「手製のポップ持っていきますんで掲示してもらえますか?よろしくおねがいします」とお伝えしていたところ、なんとこんな大々的な展開をしてくれました。
これはすごいとエトガル本人に写真を送ったところ、喜んで早速自身のFacebookに載せてくれました。いち教員のわがままにここまで付き合ってくれる書籍部、素晴らしい!うちの学生にもたくさん読んでもらえたら嬉しいです。
ワタシは自分の単著がまだない(「はやく単著を出そう」という師匠の声が・・・あぁ。いや、この次にがんばりますよ!)のですが、想像するに自分の本だとなかなか積極的な営業は照れくさくてしにくいであろうところ、翻訳者で、しかも作者が好きな作家で友だちでもあるという関係ゆえ、なんだか気分は応援団、 とにかくいろんな人の手に届けるべくがんばるモードとなっております。
ということで今日は大阪神戸のめぼしい書店を回って手製のポップを掲示してもらえないかお願いしてきました。みなさん快く受け取ってくれて感謝です。
「重版がかかってようやく出版社への義理を果たしたことになる」というこれまた師匠の言葉を思い出します。そしてすべては、ひとりでも多くの日本の読者にエトガル・ケレットという作家を知ってほしいという思いから始まったことなので、それができるというのはとても楽しくもあります。
今回は来日が叶いませんでしたが、ケレットさんは翻訳が出版されるとできる限りのその地を訪れる作家です。昨年の春に『突然ノックの音が』の出版に合わせて日本に来た時も「来なければぼくの本が売れる可能性はノーチャンスだ。でも来れば可能性が生まれるかもしれない」と言っていました。
拙訳のエトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』(新潮クレスト・ブックス)の発売に際して、「手製のポップ持っていきますんで掲示してもらえますか?よろしくおねがいします」とお伝えしていたところ、なんとこんな大々的な展開をしてくれました。
入口正面のディスプレイ。中央の一冊はネコに支えられているのだ。 |
こちらは店内。新潮クレストのミニコーナーでもある。 |
ワタシは自分の単著がまだない(「はやく単著を出そう」という師匠の声が・・・あぁ。いや、この次にがんばりますよ!)のですが、想像するに自分の本だとなかなか積極的な営業は照れくさくてしにくいであろうところ、翻訳者で、しかも作者が好きな作家で友だちでもあるという関係ゆえ、なんだか気分は応援団、 とにかくいろんな人の手に届けるべくがんばるモードとなっております。
ということで今日は大阪神戸のめぼしい書店を回って手製のポップを掲示してもらえないかお願いしてきました。みなさん快く受け取ってくれて感謝です。
「重版がかかってようやく出版社への義理を果たしたことになる」というこれまた師匠の言葉を思い出します。そしてすべては、ひとりでも多くの日本の読者にエトガル・ケレットという作家を知ってほしいという思いから始まったことなので、それができるというのはとても楽しくもあります。
今回は来日が叶いませんでしたが、ケレットさんは翻訳が出版されるとできる限りのその地を訪れる作家です。昨年の春に『突然ノックの音が』の出版に合わせて日本に来た時も「来なければぼくの本が売れる可能性はノーチャンスだ。でも来れば可能性が生まれるかもしれない」と言っていました。
書店で見かけたら手に取っていただければ、また、お知り合いなどにお勧めいただければ幸いです。よろしくおねがいいたします。
2016年4月21日木曜日
エトガル・ケレット 『あの素晴らしき七年』
イスラエルの作家エトガル・ケレットのエッセイ集『あの素晴らしき七年』が、新潮クレスト・ブックスより25日に発売となります。私にとっては初めての翻訳書です。
Finally, the 20th sibling of Etgar Keret's The Seven Good Years is coming out in Japan in a week!
見本が届きました。アメリカ版を踏襲したジャケット。目立つ!
表紙裏のblurbはな、な、なんと、西加奈子さん!
なにが書いてあるかは・・・
見せて・あ・げ・な・い♡
来週水曜くらいから書店に並びますので、ぜひ本屋でご確認を。
「それは西加奈子さん、あなたもですよね?」とうるうるしてしまった。またしても腹が熱くなった。
読んで楽しんでもらえれば、そして本好きのお友だちに勧めていただければ嬉しいです。よろしくおねがいします。
Finally, the 20th sibling of Etgar Keret's The Seven Good Years is coming out in Japan in a week!
見本が届きました。アメリカ版を踏襲したジャケット。目立つ!
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アメリカ版と双子である。 |
表紙裏のblurbはな、な、なんと、西加奈子さん!
この下にすごいことが書いてあるぜ。 |
なにが書いてあるかは・・・
見せて・あ・げ・な・い♡
来週水曜くらいから書店に並びますので、ぜひ本屋でご確認を。
「それは西加奈子さん、あなたもですよね?」とうるうるしてしまった。またしても腹が熱くなった。
読んで楽しんでもらえれば、そして本好きのお友だちに勧めていただければ嬉しいです。よろしくおねがいします。
2016年4月2日土曜日
木村友祐 『イサの氾濫』
青森は八戸の街に、東京で職を失くした将司が帰ってくる。伝え聞いた暴れ者の伯父勇雄について知りたいと思う。親戚中に迷惑をかけ、実の兄に殺されかけた伯父である。
小説が描くのは震災後の八戸で、将司が言うようにそこは被災地とはいえ「一人しか死んでない」。もっと大きな被害を受けたところと比べたらまだマシであり、将司は思わず父親に「被害者面するな」と言ってしまう。
でありながら、自分は東京で繰り返される「がんばれ東北」という無責任な言葉にも嫌悪を感じ、上っ面だけの言葉で自分の良心を肯定してあとはきれいさっぱり忘れてしまえる人々を憎む。
身の置き所もなければなにか行動を起こすこともできない。ただただ違和感を胸にわだかまらせているだけなのだ。
冷遇されてきた東北の歴史、そしてそれがメンタリティに書き込まれ、惨状を訴えることもなく声を飲み込むばかりの東北の人々が見事に描かれている。被災者なのに「東京の人にお荷物だと思われてはいないか」と心配する小夜子に。角次郎の次の言葉に。
「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されたわげだがら、余計厄介なんだどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたくねぇがら、無理して前向ぎなごど言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」
呑み込んだ言葉やわだかまった思いは最後に解放される。「イサの氾濫」の場面は圧巻である。
震災に対して、その後の現実に対して、どうしたらいいのか、正解はない。でも、ここで描かれた圧倒的な生の肯定には希望があると思う。
東北のふどだぢ、読まねばまいね。
あと併録された「埋み火」がこれまたすごい迫力。おっかない。
「かねんじょ」みたいな人って昔は通学路に必ず一人はいた気がする。そういう「異質な人」が排除された社会になっているのが怖い。
作者が同い年で同じ青森の出身というだけで手に入れて読んだ。全編生きた八戸の言葉で書かれている。わが故郷弘前とはちょっと違うけど、大きく分類すれば一緒であり、「香り(かまり)」「ずぐなす」とか、ああ、んだんだ、って読んだよ。震災を見事に描いた小説だど思う。傑作だびょん。
いい話っこだ。
小説が描くのは震災後の八戸で、将司が言うようにそこは被災地とはいえ「一人しか死んでない」。もっと大きな被害を受けたところと比べたらまだマシであり、将司は思わず父親に「被害者面するな」と言ってしまう。
でありながら、自分は東京で繰り返される「がんばれ東北」という無責任な言葉にも嫌悪を感じ、上っ面だけの言葉で自分の良心を肯定してあとはきれいさっぱり忘れてしまえる人々を憎む。
身の置き所もなければなにか行動を起こすこともできない。ただただ違和感を胸にわだかまらせているだけなのだ。
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表紙 |
冷遇されてきた東北の歴史、そしてそれがメンタリティに書き込まれ、惨状を訴えることもなく声を飲み込むばかりの東北の人々が見事に描かれている。被災者なのに「東京の人にお荷物だと思われてはいないか」と心配する小夜子に。角次郎の次の言葉に。
「こったらに震災ど原発で痛めつけられでよ。家は追んだされるし、風評被害だべ。『風評』つっても、実際に土も海も汚染されたわげだがら、余計厄介なんだどもな。そったら被害こうむって、まっと苦しさを訴えだり、なぁしておらんどがこったら思いすんだって暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ。取材にきた相手さも、気遣いかげたくねぇがら、無理して前向ぎなごど言うのよ。新聞もテレビも、喜んでそういう部分ばり伝える」
呑み込んだ言葉やわだかまった思いは最後に解放される。「イサの氾濫」の場面は圧巻である。
震災に対して、その後の現実に対して、どうしたらいいのか、正解はない。でも、ここで描かれた圧倒的な生の肯定には希望があると思う。
東北のふどだぢ、読まねばまいね。
あと併録された「埋み火」がこれまたすごい迫力。おっかない。
「かねんじょ」みたいな人って昔は通学路に必ず一人はいた気がする。そういう「異質な人」が排除された社会になっているのが怖い。
作者が同い年で同じ青森の出身というだけで手に入れて読んだ。全編生きた八戸の言葉で書かれている。わが故郷弘前とはちょっと違うけど、大きく分類すれば一緒であり、「香り(かまり)」「ずぐなす」とか、ああ、んだんだ、って読んだよ。震災を見事に描いた小説だど思う。傑作だびょん。
いい話っこだ。
2016年3月20日日曜日
ジョナサン・サフラン・フォア 『イーティング・アニマル』
『ものすごく近くてありえないほどうるさい』のアメリカユダヤ系作家フォアが書いた、食をめぐるルポルタージュ。息子の誕生を機に、何を食べさせるべきかと悩んだフォアは食肉産業の調査をはじめ、ファクトリー・ファーミングと呼ばれる工業式畜産業の実態を知る。まるで工業製品のように豚や鶏が生産され、促進栽培され、ときとして非人道的に屠られ、商品化された肉として安価に販売されていく。結果的にフォアは肉食自体をやめるという選択をする。
肉食を続ければ現在の食肉産業を結果的に支持することになってしまう。だからやめるのだ。
『いのちの食べ方』『フード・インク』といった食に関する映画も見ているし、この問題に定期的に関心が向くということは、ぼく自身もなんかおかしい、いいのかな?と思っているということなのだと思う。しかし、すでに肉食を与えられた世界で生きてきた自分は、フォアのように肉食をやめる気概がない。その困難さを思うと、正しいとは思っても、躊躇してしまう。
まず、肉の味が好きだ。ステーキが好きだし焼き鳥も好きだ。
そして、肉食をやめた場合に、ぼくの食事は極端に限定されることになる。たとえば外食先でベジタリアンメニューはまずない。コンビニで買うおひるごはんでベジタリアンなのはサラダや梅干しのおにぎりくらいだ。
昨年の今頃作家でベジタリアンのエトガル・ケレット(彼はフォアとも友人であり、自分はフォアと違ってpreaching vegetarianではないよ、と冗談を言っていた)と食事したとき、困ったのは店選びで、肉がダメとなるととたんに選択肢は狭まり、どうしたもんか当方に暮れた。結局和風居酒屋で野菜や豆を中心に食べた。これが毎回ではとてもじゃないけどやっていけないな、と思った。
そのときに率直に「ベジタリアンって大変じゃない?」とケレットに聞いてみた。そのときにことばにこの問題の答えがあるのだと思う。
「ぼくの人生では食べることの優先順位はそんなに高くないんだ」
自分の生活では食べることの優先順位は極めて高い。どっか知らない土地に行けば地のものを食べたいと思うし、なにかがんばったご褒美にはおいしいものを食べ、食事だけを目的に出かけることもある。ベジタリアンになるということはそういう喜びを放棄することだ。「(うまいものを)食うために生きている」ぼくのような欲深な人間には厳しい。
ではあるが、フォアのように現実を知ったうえで肉食を放棄するのは、むしろ食べることの優先順位が高いからだろう。優先順位が高いからこそ「正しい」ものを口にしたいしさせたいのだ。
われわれはみななにかを食べないことには生きていけないわけで、一日3回、毎日選択を突き付けられている。
肉食をやめられる気はまったくしない(ということは現在のファクトリー・ファーミングを結果的に支持して、環境を破壊し、自分の首を絞めることになるとフォアには言われるのだろうが)のだが、たぶんこの先もずっと気になっていくのだろうと思う。
肉食を続ければ現在の食肉産業を結果的に支持することになってしまう。だからやめるのだ。
『いのちの食べ方』『フード・インク』といった食に関する映画も見ているし、この問題に定期的に関心が向くということは、ぼく自身もなんかおかしい、いいのかな?と思っているということなのだと思う。しかし、すでに肉食を与えられた世界で生きてきた自分は、フォアのように肉食をやめる気概がない。その困難さを思うと、正しいとは思っても、躊躇してしまう。
まず、肉の味が好きだ。ステーキが好きだし焼き鳥も好きだ。
そして、肉食をやめた場合に、ぼくの食事は極端に限定されることになる。たとえば外食先でベジタリアンメニューはまずない。コンビニで買うおひるごはんでベジタリアンなのはサラダや梅干しのおにぎりくらいだ。
昨年の今頃作家でベジタリアンのエトガル・ケレット(彼はフォアとも友人であり、自分はフォアと違ってpreaching vegetarianではないよ、と冗談を言っていた)と食事したとき、困ったのは店選びで、肉がダメとなるととたんに選択肢は狭まり、どうしたもんか当方に暮れた。結局和風居酒屋で野菜や豆を中心に食べた。これが毎回ではとてもじゃないけどやっていけないな、と思った。
そのときに率直に「ベジタリアンって大変じゃない?」とケレットに聞いてみた。そのときにことばにこの問題の答えがあるのだと思う。
「ぼくの人生では食べることの優先順位はそんなに高くないんだ」
自分の生活では食べることの優先順位は極めて高い。どっか知らない土地に行けば地のものを食べたいと思うし、なにかがんばったご褒美にはおいしいものを食べ、食事だけを目的に出かけることもある。ベジタリアンになるということはそういう喜びを放棄することだ。「(うまいものを)食うために生きている」ぼくのような欲深な人間には厳しい。
ではあるが、フォアのように現実を知ったうえで肉食を放棄するのは、むしろ食べることの優先順位が高いからだろう。優先順位が高いからこそ「正しい」ものを口にしたいしさせたいのだ。
われわれはみななにかを食べないことには生きていけないわけで、一日3回、毎日選択を突き付けられている。
肉食をやめられる気はまったくしない(ということは現在のファクトリー・ファーミングを結果的に支持して、環境を破壊し、自分の首を絞めることになるとフォアには言われるのだろうが)のだが、たぶんこの先もずっと気になっていくのだろうと思う。
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